86年4月には男女雇用機会均等法下の第1世代の新入社員を迎えることを受け、85年12月28日号(86年新年号)に「女性を使えない企業はダメになる」と題した座談会が掲載されている。参加者は、女性国会議員の森山眞弓(1927年11月7日~2021年10月14日:当時・外務政務次官)、女性の生き方をテーマにした小説やエッセーなどで多くの著作を残す作家の曽野綾子(1931年9月17日~)、東証1部(当時)上場企業における初めての女性役員となった石原一子(1924年10月22日~:当時・高島屋常務取締役)の3人だ。
石原は東京商科大学(現一橋大学)を52年に卒業し、当時すでに男女同一賃金制度を採っていた高島屋に入社。79年に広報担当の取締役に選任され、81年には常務取締役に昇格。当記事が掲載された翌年の86年には、奥谷禮子(元ザ・アール会長)と共に女性初の経済同友会会員にもなった。
森山は女性で初めて東京大学法学部に入学し、50年に女性初の霞が関キャリア官僚となって、労働省婦人少年局長時代には男女雇用機会均等法の草案に関わった。その後、国会議員となり環境庁長官、内閣官房長官、文部大臣、法務大臣を歴任。官房長官時代には、大相撲の内閣総理大臣杯を土俵に上がって授与しようとして日本相撲協会に拒否され、女性差別であると問題提起したことでも知られる。
“均等法元年”に行われた3人の議論は、希望に満ちている。曽野は「私は、いくら均等法を頂いても、女でも駄目なのは駄目だと思います。というのは、いい人間は、性別、学歴に関係なく使えるということだと思っているんです。(中略)自然淘汰が行われて、ふわっとして、職場の花みたいに生きたい人は早く辞めていくから、ちょうどいいんですよ、企業も。ふるい落としで」と、均等法以降は男女の概念自体がなくなることに期待を懸ける。
森山は「2000年になって、ふと周りを見回すと、ああ、こんなに変わったか、とびっくりするような社会になっているんじゃないかという気がします。この10年間がそうでしたから」と予測し、石原は「米国の管理的職業の25%が女性だそうですが、日本は10年ぐらいの間に、そのぐらいの域にいくんじゃないですかね」と話す。
しかし残念ながら、「25年までに女性役員の比率19%」という政府目標に向けて、現在は課長相当職以上の管理職に占める女性の割合は、いまだ12.7%(22年度「雇用均等基本調査」)にとどまっている。(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)
婦人の地位を高めたのは
いつの時代も戦争がきっかけ
――ご出席の皆さんは現在、政治、教育、文化、ビジネスの各界で女性リーダーとして活躍されております。まず、最初の視点ですが、女性を取り巻く環境はどう変化したか。さらに、どう変化するか。森山さんから一つお願いいたします。
森山 1985年が“国連婦人の10年”の最後の年で、この10年間、どういう環境変化があったかといろんな方からずいぶん聞かれるのですが、いろんなことが変わったと思うんです。
いちばん目に付くのは法律や制度ですけれども、この4月からは雇用機会均等法が施行されます。だんだん現代の女性の実態に合うようになってまいりましたね。
女性の実態の方も、大変変わってきています。やはり一番大きい基本的な条件は、教育の機会均等が実質的に実現してから30年たっている、それが一番の原動力ではないでしょうか。
曽野 私は個人で一人で小さく考えて、社会の方に目がちっともいかないというのが、私の特徴なのですが、要するに、非常に単純な原理だと思うんです。男と同じに使えるなら使うということ、それだけなんです。私は経済の原則というのが割と好きで、理念でもなんでもなくて、得ならそうなるというのは非常に自然だと思うんです。
ですから制度も、もちろん森山先生のような方にちゃんとバックアップしていただかなければいけないんですけれども、同時に、男と女と両方使って、女を使った方が得だということなら、黙っていても使うと思うんです。それ以外に、私は、自然に女が働くということが社会で定着する方法はないと思います。