「カリスマ講師」が持っている
「理屈ではない何か」とは?

 私が人生で初めて出会ったカリスマ講師は、英語の先生でした。

 その先生の授業はいつも超満員。時事ネタを絡めながら、英語の長文問題をおもしろく解説してくださる方で、生徒の興味を惹きつけて離さない魅力がありました。先生の話はいつも楽しく、90分の授業を一瞬に感じたものです。

 次に出会った国語の先生も、授業はいつも満員御礼。自分の世界に持っていくのがうまく、ざわざわしていた生徒たちも、先生が話し出した瞬間にピタッと私語をやめ、かじりつくように授業を聞いていたことを覚えています。

 ですが、先ほども述べた通り、彼らが教える内容自体は、他の先生と大差ありませんでした。

 それでもなぜ、生徒たちは先生方の話に興味が持てたのか。先生方の授業は、なぜ頭に入ってきたのか――。今あらためてこれらの点について考えたとき、カリスマ性のある講師は「理屈ではない何か」を持っているという結論に至りました。

 その「何か」とは「人間的魅力」です。

 個別指導塾はまた別ですが、集団授業を行う塾・予備校の場合、先生の話のベクトルは基本的に「一方向」です。何度も立ち止まって質問を受け付けたり、一人一人の理解度を確認したりしていると、授業が先に進まないからです。

 そのため、多くの講師は生徒の反応を細かくは見ず、どんどん授業を進めます。それは悪いことではなく、どちらかと言うとカリスマ講師たちの授業も「一方向」でした。生徒にたくさん話し掛け、「双方向」の授業をしていたから人気があったわけではないのです。

 ですが、彼らは「一方向」の情報伝達の質が高く、「授業に乗り遅れないよう、一言一句漏らさず話を聞こう」と生徒の意欲をかき立てる能力に長けていました。それは小手先のテクニックではなく、本人たちの人間的魅力によるところが大きかったと思います。

 例えば、先述した英語の先生にはとても愛嬌がありました。自身の過去の失敗談や、受験生時代の得意・不得意も包み隠さずに明かしてくれました。国語の先生は流行に敏感で、若者が好きな音楽や漫画を好んでいました。生徒たちとも趣味が合い、その話を授業に絡めながら、関心を惹くのがとてもうまかった印象です。

 当時の私にとって、こうした人間味あふれる先生方は、自分達とは違う“大人”ではなく、同じ人間なんだと感じられました。