1951年3月5日 内田信也 内田汽船創業者
 船舶事業で実業家の仲間入りをした内田信也(1880年12月6日〜1971年1月7日)は、山下亀三郎、勝田銀次郎と並んで三大船成金の一人に数えられている。1905年に東京高等商業学校(現一橋大学)を卒業後、三井物産に入社し、配属された神戸支店船舶部(現三井E&S)で、用船(船のチャーター)ビジネスに携わる。海運業者に持ち船を貸し、用船料を受け取るという事業である。

 14年、第1次世界大戦の勃発とともに、日本は欧州向けの輸出が急増し好景気が訪れるが、内田はこの船舶需要の高まりを予見し、三井物産を辞めて自ら海運会社を始めた。次々に船舶をチャーターしては、急騰する船賃で大もうけし、山下亀三郎、勝田銀次郎と並んで“三大船成金”と称されるようになった。

 第1次大戦が終結すると一転して日本は不景気に見舞われるのだが、内田はいずれ来る終戦を見据えて、「借金と同額の用船料の今後の収入に海上保険を付けて、収入を確保しておいた」という。だから、他の船成金と違い、終戦の環境変化で大打撃を受けることはなかった。

 今回紹介するのは、51年3月5日号に掲載された内田のインタビューである。第2次世界大戦の敗戦でどん底からの再スタートを切った日本だが、50年に朝鮮戦争が勃発したことで戦争特需が巻き起こっていた。かつて戦争でひともうけした内田に、この特需の見立てを聞くという内容だ。内田は当時の“武勇伝”を披露しながらも、結論は極めて冷静である。

「今度は第1次世界大戦のときのような非常なブームは来ない。法外な利潤は得られないが、堅実な高収益が相当期間持続すると思っている。それに講和が締結されれば、いろいろな制限が解除されるから、商売はずっとやりやすくなろう。もちろんマイナスの面もあるだろうが、とにかく明るい方向に進んでいくものと思われる」

 ちなみに内田は24年に衆議院議員となり、政治の道へ進む。鉄道大臣、農商務大臣を歴任し、戦後は再び農林大臣に就任している。船でもうけた金については「思い出を語れば尽きないが、もうけた金は皆、使ってしまった。5年も政治に関係すればね……」と語っている。(週刊ダイヤモンド/ダイヤモンド・オンライン元編集長 深澤 献)

船賃が50倍に騰貴した
第1次大戦の戦時景気

 私は、米ソ戦争は急には起こらんだろうが、準戦時体制は当分続くと思っている。一方が準備をすれば一方がまた用意するのは当たり前のことで、いたちごっこだ。ここが第1次世界大戦とは違う点で、この前はぽかっと戦争になったから、皆面食らった。つまり準戦時体制というものがなくて、いきなり戦争になった。

第1次世界大戦で大稼ぎした“船成金”、内田信也が語った戦争特需1951年3月5日号

 今言ったように、第1次大戦のときには無準備のうちに戦争になり、しかも当時、世界第二の海軍力を持っていたドイツが相手だったから、開戦直後は国際貿易がぴたっと止まった。1914年7月からだ。国際航海は中断されるし、貿易は止まった。船という船が皆沿岸に集まったから、日本沿岸の運賃は逆に下がった。

 門司―若松間の石炭運賃は80銭だったのが、35銭までに暴落した。ところが10月になるとようやく海運界も姿勢を取り戻した。軍需品が動きだしたからで、船賃は大暴騰した。用船料は、私が一番初めに借りたのだが、重量トンでトン当たり1カ月1円だった。それが戦争の終わりには50円まで上がった。つまり50倍の騰貴だ。その聞、35円、40円という時期が一番長く続いた。

 第1次大戦の際に日本の船が稼いだ運賃――貿易外収入は30億円に達した。これは私が逓信省の船舶管理委員をやっていたから、よく記憶している。

 その次の為替が1ドルが2円どころか、1円85銭までなった。今の金にしたら1兆何千億円にも匹敵する。同時にわれわれ個人、船会社も莫大な収入があった。

第1次大戦当時のような
海運株の急騰はない

 私は14年7月、セルビアの一発のピストルの音とともに、三井物産の船舶部を辞めた。その退職金1万5000円の資本で独立した。当時は商売が非常にやりよかった。それというのが、用船をしたり買船をしたりする対象の船が日本中に450万トンもあったからだ。

 私はすぐ第八多聞丸を1カ月4200円で借りた。借りたのが8月で、10月には「虎大尽」といわれた山本唯三郎(松榮昌行)に1カ月8000円サブチャーター(又貸し)した。差し引き3500円もうかった。1カ年にすれば4万何千円もうけたわけである。それを土産にして、今度は外の船をチャーターして、それを又貸ししては利食いした。

 独立後10カ月目の翌年の4月に大正丸という古い船(4300トン)を16万円で粕壁次郎から買った。それから以後はやはり用船もしたが、むしろ買船で進んでいった。2年ほどたったら新造する力が出てきたから、新造、新造で行った。

 現在、日本の船腹量は170万~180万トン、戦前の5分の1に減ってしまった。今は、新造して増えつつあるが、100トン以上のものでせいぜい150万トンである。個人で買い取りもできなければ、用船も自由にならない。対象がないのだから……。

 今日では、たとえ150万円の資本でも、1500万円の資本をもってしても、手が出ないありさまだ。結局、株式――海運株を通して海運界へ投資するほかない。今、船価はどうかというと、第6次船(ダイヤモンド編集部注:戦後復興の一環で、政府融資によって行われた船舶の建造計画、47年以降、87年の第43次計画造船まで実施された)がディーゼル船で、私の所で三井造船へ注文したディーゼル船が1トン8万円。それが今では、10万円でも難しい。

 第7次の造船が10万~11万円で決まると思うが、仮に10万5000円で決まったにしても、2カ月前に注文したのと値が2万5000円の違い。7000トンの船だから1億7500万円の差が出てくる。それで受け渡しが8カ月後になるから、この8カ月の間に1カ月1200万円は利潤を残すから、9600万円。約1億円である。そうする約2億8000万円の違いになる。たった1隻で……。