秀吉の成功モデルを
再現した「水攻め」

 埼玉県行田市にある忍城は、ベストセラー小説『のぼうの城』(著・和田竜)の舞台である。豊臣秀吉は天正18(1590)年、関東の覇者・北条氏攻略の一環としてこの忍城を攻撃。担当したのは秀吉が最も信頼していた側近・石田三成である。

 三成の作戦は「水攻め」であった。城の周囲に堤を築き、利根川と荒川の水を忍城周辺に流し込み、城を孤立させる。

 水攻めは三成の判断とするものもあるが、秀吉からの指示というのが有力である。どちらにせよ、8年前の天正10(1582)年に秀吉が大成功した「備中高松城の水攻め」や、天正13(1585)年の「紀州太田城の水攻め」が記憶にあったと考えられる。

 特に備中高松城攻略は、これによって秀吉が天下人へ大きく飛躍した、いわば「栄光の記憶」だから、忍城の水攻めは「栄光ある成功モデルの再現」であった。

 忍城内で指揮をとったのは、小説で「のぼう」と呼ばれた、城主のいとこに当たる成田長親(城主は小田原城に支援に行っており留守だった)。北条家側の城は多くが戦い前に降伏していたから、なぜ忍城が徹底抗戦をしたのかは不明である。

 だが、城主の妻らも堀を掘ったり、水田で足を取られた豊臣方の兵を狙い撃ちするなど、総力戦はすさまじかった。そこから、成田長親という人物が統率力に優れていたと推測できる(ちなみに城内にはおよそ3000人いたが、ほとんどが農民で、兵は1000人程度と考えられる)。

 周囲が沼沢地や水田で攻めにくかったため、石田三成は攻城の数日後に水攻めの準備を始めた。三成は動員力と資金力に物を言わせ、長大な堤を建設していく。

 しかし忍城は落城せず、途中、堤が決壊して逆に豊臣方に死傷者が出ることになる。結局開城は、北条氏の根拠地である小田原城が陥落した後であった。