“のぼう”とロンメル将軍の
「士気を上げる」方法

 忍城水攻めの失敗は、なぜ起きたのか。

 第1に、規模の問題がある。三成が造った堤は最低で14km、最大説では28㎞ともいわれる。秀吉の備中高松城の水攻めのときは2.5~3.3㎞。つまり、規模的に10倍の差があった。ということは、必然的に水没面積も巨大になる。

 ダム建設の際には、堤体にかかる水圧を綿密に計算して築堤する。戦国時代の当時、城郭や堀の設計水準からみてかなり高度な技術はあったと考えられるが、最低でも14㎞の堤をわずか5日間で完成させたという話が事実なら、完成度に不安が残る。

 堤の高さの問題もあった。天正13年、紀州太田城を水攻めした際には6m、備中高松城は場所によって7m、それに対して忍城周囲に築かれた堤の高さは3m余。忍城の立地が平野であることを割り引いても、とにかくスピードを重視したために、他の城攻めのときよりも低くなった。これでは構造上の問題が起きかねない。
 
 第2に、士気の問題がある。三成は浅野長政に宛てて「諸将はやる気がない」という愚痴のような書状を出している。三成に協力している諸将は、「水攻めなら自分たちの出番はないだろう」と、気を抜いていた様子が浮かぶ。

 1カ月余りに及ぶ攻城戦では小競り合いが頻繁に起きており、そのほとんどで忍城側が勝利している。こうした小競り合いは士気を保つ上で重要な意味がある。

 第二次世界大戦で戦車戦の名手といわれたドイツのロンメル将軍は、負けが続いて意気消沈していたアフリカ方面軍に司令官として赴くと、敵軍が小勢で孤立しているところばかりを狙って勝利を繰り返した。

 全体としての兵力は劣っても、相手が小集団に分かれていれば、それより多くの兵力を集中して勝つことができ、勝てば士気が上がる。

 忍城の成田長親はまさにこの戦術を駆使して、豊臣方が堤防を築き始めた6月7日、11日、12日、13日、27日と、ある日は夜襲をかけ、ある日は陣屋に火を放ち、ある日は鉄砲を駆使して寄せ手を撃退するなど、できる限り戦力を集中して豊臣方を翻弄した。