「俺のときは成功した」
現場を知らない社長の指示

 忍城水攻めの失敗要因の第3は、立地(環境)である。秀吉が水攻めに成功した紀州太田城は、現在のJR和歌山駅から徒歩圏で海も近い。実際、攻城戦では豊臣方が水軍を堤防内に入れ、安宅船で太田城を攻撃した。これが城側の戦意を喪失させる効果を挙げた。

 他方、忍城は現在の埼玉県の行田市に位置し、大型の船を短期間に堤内に入れるのは不可能であった。

 備中高松城はどうか。ここは近年でも豪雨になると自然堤防によって水がたまる湿地帯である。つまり、すでにある堤にふたをするように若干の築堤をすれば、川から水を誘引して浮き城にできた。

 忍城は湿地帯にあるといっても、周囲に山や高い丘もない。城全体を堤で囲むしか手はない。資金と労力があれば築堤は可能だと、秀吉も三成も考えた。
 
 しかし、忍城に状況が近い紀州太田城の水攻めのときも堤が崩壊して味方に被害を出していることを考えれば、この成功モデルは疑問視すべきであったし、そもそも現地を見ていない秀吉が強く水攻めを指示し続けた事実は、まるで「現場を知らない創業社長が、出先にむちゃな方針を強要する」ことに似ている。「俺のときは成功したぞ」というやつである。

 失敗の要因の第4は、指揮官としての三成の在り方だ。前述のとおり「諸将はやる気がない」ということをわざわざ身内でもない相手(浅野長政)に送ったのは、よほど腹に据えかねたのであろう。

 しかし考えてみれば、現場の士気は現場指揮官である三成が盛り上げるものであって、三成の直接の家臣でもない諸大名たちは、三成のために働くモチベーションはそもそも高いとはいい難い。

 秀吉が戦った備中高松城攻略のときはどうであったか。周囲には「社歴」の短い黒田孝高や、織田信長から派遣されていた大名など、統率するには難しい配下を抱えていた。しかし秀吉は成果に対して相応以上の報償を与え、地位を上げ、普段は温情厚く接し、組織を自分の手足のように動かす体制を自分でつくり上げていた。

 秀吉は与えられた兵力を常に「自前の組織化」しようとしたのに対し、三成は与えられた兵力を「将棋の駒のように正確に動かす」ことを目指した。優等生がやりがちな、「正しい論理と誤った実践方法」である。だから言うとおりに動かない諸将に頭にくる。これでは士気は上がらない。平時の官僚組織運営には適しているが、戦時の、命のやりとりをする現場では適任とはいえないであろう。