ただ、今の永田町を見てもわかるように、政治というのは権力闘争だけで動くわけではない。為政者としてやるべきことを、カネをつかってちゃんとやってくれるているのか、、つまり財政が健全である否かという点も実はかなり重要だ。

 そういう意味では、江戸幕府後期が危険水域だった。かねてから慢性的な財政難に悩まされていたからだ。そこにトドメを刺したのが、「安政の東海・南海地震」。つまり南海トラフ巨大地震だったのだ。

 1854年11月4日、5日とわずか31時間の間隔でM8.4の巨大地震に襲われた太平洋沿岸は壊滅的な被害を受け、およそ3万人が亡くなったと記録がある。当時の日本の人口が3300万人ということを考えると、凄まじい死者数だ。

 この悲劇からどうにか復興に動き出した翌年、次の巨大地震が日本を襲う。
 
 1855年10月2日の「安政の江戸地震」、つまり首都直下型地震だ。マグニチュード7クラスで、幕府の施設や各藩の江戸屋敷は壊滅的な被害を受け、首都機能はマヒしてしまう。それでもどうにか頑張って首都の復興を進めようとすると、今度は巨大台風に襲われる。

 1856年の「安政の江戸暴風雨」、高潮を伴うこの巨大台風が江戸を直撃して、当時の江戸の人口の1割にあたる10万人が亡くなったという資料もある。

 この3年間の自然災害ラッシュによって、幕府の財政は完全にトドメを刺されたのだ。これが徳川の求心力低下を招き、諸藩の不満をふくらませて1864年からの討幕運動につながっていく。カネがない権力者が引きずりおろされるのは、歴史の必然なのだ。