ファンとアイドルが
共同作業で作り上げる文脈

 往年のファンや、当時を知る人の場合、『極悪女王』を見て、「もっとここを深く掘り下げてほしい」と思ったかもしれない。本作ではリング上のシーンに重きが置かれており、またダンプ松本が主人公であることもあって、クラッシュギャルズ(特にライオネス飛鳥)のエピソードは薄めである。

 ストーリー展開で重きを置かれるのは、ダンプ松本の生い立ち(DVの父親や貧困家庭)であり、最初は会社からさほど期待されていなかった存在であったダンプや長与が、どのようにスターの階段を駆け上がるか、である。

 ゆりやんレトリィバァ演じるダンプ松本がある人物から、「スターは自然に光り出すときがある、観客はそれに魅入られる」という内容の言葉をかけられる場面がある。

 命を賭けてもスターになりたいと願う少女たちの渇望と、普通の少女がスターとして光り出す瞬間を、そのステージに上がることのできなかった無数の人の憧憬と共に描くのである。

 ここに、鈴木おさむの仕掛けがあると感じた。

 現代は、また何度目かのアイドルブームであり、国を超えても「推し」を追いかけるファンが数多く存在する。 オーディションや練習生時代からそのストーリーは始まっているし、努力や葛藤も含め、「消費」される時代である。

 昨年大ヒットした曲といえば、YOASOBIの『アイドル』であり、紅白歌合戦でも他の出演アイドルたちを従えた圧倒的なパフォーマンスが話題となった。『アイドル』では、アイドルが演じる表の姿と素顔、それが「嘘」でありながらファンに対する「愛」であることなどが歌われている(と、筆者は理解している)。アイドルを演じ切ること、それが(ある程度)演技であると理解しながら、それを楽しむファンたちとの間に深い文脈が作られている。

 こういう時代であるからこそ、鈴木おさむは現代の若者に対して最も刺さるのは、「スター」とそれにまつわる言葉であると考えたのではないか。細かいところまで書き込まなくとも、「スターが自ずと光り出す」という言葉があれば、アラフォー以上の世代にも、Z世代にも伝わると思ったのではないだろうか。