三田紀房の投資マンガ『インベスターZ』を題材に、経済コラムニストで元日経新聞編集委員の高井宏章が経済の仕組みをイチから解説する連載コラム「インベスターZで学ぶ経済教室」。第133回は、国内企業と外資系企業の「コンプラ観」の違いを紐解く。
コンプラ過剰社会の自縄自縛
不動産投資対決の判定は覆り、勝者は主人公・財前孝史から藤田家の御曹司・慎司へと変わった。不満が収まらない財前はルール違反にクレームをつけるが、判定役の富豪・塚原為之介から「ルールそのものが変わる可能性」を考慮しなかった甘さを指摘される。
作中で指摘されるように、日本は政治やビジネスのルール作りに関与するのが苦手で、結果として後手に回ることが多い。スポーツの世界でも、日本勢が不利になるルール変更がなされて成績が落ちると言ったケースは過去にいくつも思い浮かぶ。
その背景には規則やマナー、社会規範を守ることをある種の「徳」とみなす志向があるのだと私は考えている。ルールを大事にしすぎるのだ。だからこそ、暗黙のルールを含め、それを踏み越えた言動に苛烈な批判が集まり、メディアやSNS上で炎上が起きる。不道徳だからいくら非難されても仕方ないという集団心理が働く。
自縄自縛の思考法の憂鬱さの最たる例が「コンプラ」だろう。法律や社会規範などコンプライアンスを守ることの重要性は言うまでもない。だが、日本のコンプラリスクのヘッジは度が過ぎている。コンビニでビールを買うたび、50歳過ぎのオジサンに「20歳以上です」とタッチパネルで確認させることに何の意味があるのか。
ルールやコンプラとどう向き合うか、日本と欧米の発想の違いを物語る経験談に「なるほど」と頷いたことがあった。
A氏は日本の金融機関でキャリアを積んだ後、外資系の投資銀行に転職した同世代の金融マンで、プロの投資家向けにオーダーメイドで運用商品を提案・開発するのを専門分野としていた。外資移籍前からの長い付き合いで、時折飲みに行っては本音トークをかわす仲だ。
「日系と外資の違いはなんですか」
外資に移籍して半年ほどたったころ、いつものように2人で飲んでいて、私はふと「日系と外資の違いはなんですか」と聞いた。
A氏の答えは「いろいろあるけど、コンプラですかね」というものだった。「日系は、ルールの手前で自主規制するからコンプラ部門はブレーキ役で現場にとっては邪魔になりがち。外資は発想が逆で、『ここまでは踏み込んでも大丈夫』とギリギリセーフの線を見極めるのがコンプラの仕事」だという。
この答えは私の記者としての肌感覚とも一致していた。デリバティブを駆使した一部の仕組債や証券化商品、「こんなのアリなのか」と首をひねるような際どい資金調達や財務戦略など、新奇な商品やサービスの発信源は、たいていが外資系だった。
「攻め過ぎ」が問題視されて仕組債のように金融当局が規制を強化したケースも少なくない。裏返せば、当局のルール変更が後手に回るほど、外資系は常にギリギリまで踏み込んでゲームをプレイしているとも言える。金融の歴史は、規制とイノベーションの「いたちごっこ」の一面がある。
商道徳の観点から、行き過ぎた「攻めのコンプラ」を全面的に肯定するつもりはない。だが、政治家や圧力団体などを通じた規制緩和の外圧を含め、ルールや「土俵の作り方」をめぐる発想で、日本はもっと柔軟になっても良いのではないか。
人間のためにコンプラがあるのであって、コンプラが人間より優先されるのは本末転倒だ。欧米型と日本型の中間のどこかに、バランスの良い着地点があるように思えてならない。