夫の留学に家族で渡米、自身のキャリアの下地づくりも

子どもを通じて現地のファミリープレイグループに参加子どもを通じて現地のファミリープレイグループに参加

――結婚の2年後に太郎氏は米国の大学に留学されました。設立から数年目の我究館の運営も大変な時期に、なぜ留学を決断したのですか。

杉村 私たちは1998年に結婚しました。やがて子どもも生まれ、彼は我究館の館長として学生たちに「自分の人生を輝かせるための自己分析」を指導する仕事に没頭し、それなりに順風満帆な時期だったと思います。

 私は航空会社を辞め、我究館のマナーコーチとアシスタントをしていたのですが、彼と一緒にする仕事を通して誰かの役に立っていることに喜びを感じていました。

 ところが、ある時、我究館から社会に巣立っていった一人の卒業生が、突然亡くなってしまうという悲しい出来事が起こりました。このことをきっかけに「悔いのない生き方」を自問自答する中で、彼は自分がやり残していることに気付いたようです。それは「留学」でした。

 自分自身がグローバルで通用する存在となって、そこで仲間たちともう一つ上のステージに上がって一緒に成長したい。そうはいっても、我究館というとても小さな企業の経営者が留学に赴くことは、組織としての一大事です。

 誰が経営を見るのか、周りにどれだけ迷惑をかけるか、そう考えるととても切り出せない状況にありました。

 そんな時にその卒業生が亡くなって、彼の分も生きるという思いを強くし、自分が本当にやらなければいけないことを実現したいと、2000年に米国ハーバード大学への留学に踏み切ったのです。

――まだ小さかったお嬢さんも一緒に、家族で渡米されたのですね。

杉村 米国へは、私と0歳だった娘も一緒に3人で赴きました。当時、太郎さんの月収は15万円くらいです。我究館の存続のために極限まで自分の給料を下げましたので、現地では家賃の安いアパートを借り、とにかく節約にいそしむ質素な生活ぶりでした。

 太郎さんは授業や課題でとにかく忙しく、毎日図書館を3カ所はしごして夜遅く帰宅する毎日です。その合間を縫って、月に1回は我究館の経営を見るため週末に帰国し、またすぐに戻ってくるという、とても慌ただしいスケジュールをこなしていました。

 そんな中でも、彼を支え、彼の夢の実現のために過ごす日々はとても充実していました。同時に、私自身も帰国したらもう一度、報道の仕事にチャレンジしてみたいという夢がありましたから、米国では色々な人の価値観や考え方や文化に触れたいと思っていたのです。

 夫がハーバード大学でマスターパブリック(公共政策)を学んでいる時、私は「ハーバードネイバーズ」という留学生家族のサポート組織に登録し、週に数回、そこで知り合った同大学医学部精神科の教授夫人を、娘と一緒にお宅まで訪ねていました。

 例えば、日本の新聞を片手に「日本ではこんな報道がなされているが、米国からはどう見えるか」、あるいは、米国に来て日本人として驚いたことについて「米国人はこれをどう捉えるか」といったフリーディスカッションをさせてもらったのです。

 これ以外にも、自分だけではなかなかコミュニティーに入れない場合は、地域の公園に出かけて行って子どもに友だちを作り、その方のプレイグループに入れてもらったりして輪を広げていきました。こうして、子どもと一緒に行う体験を通じて他国から来たファミリーと知り合いになり、お互いの文化の交流を楽しんでいました。