米国から帰国後、証券アナリストとしてBS朝日の経済番組でキャスターを務める米国から帰国後、証券アナリストとしてBS朝日の経済番組でキャスターを務める

キャリアデザインスクール「我究館」現館長の杉村貴子氏は2000年、創業者で夫の杉村太郎氏の米国大学院留学に同行し3年間の海外生活を送る。帰国後、太郎氏が我究館の経営にいっそう注力する傍ら、貴子氏もフリーキャスターとして新たなキャリアをスタートさせた。そんな矢先、太郎氏ががんの宣告を受ける。病魔と闘う夫に代わり自分が家族を支える決断、夫亡き後に自分が我究館を支える決断。悩み抜きながらも道を選ぶ際に支えとなった夫婦の価値観とは。そして今、経営者として自身が就活生や社会に発するメッセージとは。(取材・文/ダイヤモンド・ライフ編集部、写真提供/杉村貴子氏)

「勧められた仕事を断らない」姿勢で広げたキャリアの土台

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――杉村太郎氏がハーバード大学行政大学院を修了し、ご自身も米国でさまざまな経験をし2003年に帰国されました。

杉村 修了式の後自宅に戻ってから、太郎さんは自分が着ていた卒業生の着るガウンを私に着せてくれました。家族で3年間の留学生活をやり遂げたという太郎さんの感謝の気持ちが伝わってきました。米国での生活で、私自身も大きく成長できたと思います。

  米国滞在中から、帰国後はアナウンスの仕事に就きたいと考えていたため、結婚前にお世話になったテレビ朝日のアナウンス部に挨拶に伺い、あらためて基礎を勉強することを勧められ、アナウンススクールに通うことになりました。スクール卒業後は、オーディションを受けてBS朝日の経済番組でフリーキャスターの仕事に就くことができました。

――「報道の仕事がしたい」という学生時代からの夢をかなえられたのですね。

杉村 そうですね。とてもやりがいのある仕事でした。ところが、仕事が楽しくなってきた矢先、ちょうど帰国から1年後に、太郎さんががん宣告を受けました。この時はさすがにショックで、気持ちが動転してしまいましたが、最後には「どんな状況になっても自分が家族を支える」覚悟を決めました。

――仕事は順調、そこでなぜ大和総研に転職を……?

杉村 キャスターのころは経済分野での仕事が増え、たくさんの上場企業の経営者にインタビューし、決算説明会やその後の取材にも行き、経済誌で記事も執筆しました。ところが、そのうち、自分の知識の乏しさから表面的な取材しかできていないことに気づき、もどかしさを感じるようになったのです。

 でも、フリーの立場では、家族の生活を長期的に安定させる自信がありませんでしたので、証券アナリスト資格とテレビの仕事でのキャリアをアピールし、大和総研に再就職したのです。シンクタンクとして行う企業のリサーチや分析結果を的確に伝え、かつ、マーケットの最新情報をつかむことができる人材を探していた同社のニーズに合ったのだと思います。

 よく言われることですが、チャンスの女神には前髪しかありません。そして、チャンスの女神というのは、私は「人」だと思っています。

  私の基本的なスタンスとして、「これ、やってみる?」「やってくれない?」と声を掛けられた時は断らないようにしています。アナウンススクールで学ぶことも、経営者のインタビューをするようになったのも、大和総研での仕事も、全て誰かからのアドバイスや誘い、お願いから始まっています。

 それまで全く経験がないことでも、「はい、やります」と言ったときから、自分の前にいろいろな世界が広がっていき、目の前にあることをどんどんやってきた経験が、今、会社を経営するということに全て生きていると感じています。