我究館創設者・杉村太郎氏(左)のハーバード大学行政大学院修了式の日、家族で構内を散策(2003年)我究館創設者・杉村太郎氏(左)のハーバード大学行政大学院修了式の日、家族で構内を散策(2003年6月)

キャリアデザインスクール「我究館」は、これまで約1万人の就職・転職活動を成功に導いてきた。館長を務める杉村貴子氏が、その運営会社であるジャパンビジネスラボの代表取締役に就任したのは2014年のこと。創業者で夫の杉村太郎氏の逝去に伴う事業承継だった。だが、貴子氏のキャリアは、人材育成支援とは全くの異業種からスタートしている。転職、結婚、出産、家族での渡米、夫を襲った病魔と死。波乱に翻弄されながらも、夫の志を受け継ぎ、夢の実現に向けて歩むその生き方を2回に分けて紹介する。(取材・文/ダイヤモンド・ライフ編集部、写真提供/杉村貴子氏)

我究館をつくった杉村太郎は「歌手」だった!?

――我究館を設立した杉村太郎氏は、どんな方だったのですか。

杉村 今の50代以上の方なら、杉村太郎が「歌手」だったことをご存じの方もいらっしゃるかもしれません(笑)。時代はバブルの絶頂期に差しかかりつつあった1987年、彼は商社マンとして社会への第一歩を踏み出しました。

 そして、学生時代にバンド活動に熱中していた経緯もあり、在職中に大学時代の同級生とCDデビューしてしまったのです。

 その後、大手損害保険会社に転職して人材に関わる業務を担当したことが、1992年に我究館を設立するきっかけとなりました。採用面接で、大半の学生がマニュアル通りの受け答えしかできないことに愕然(がくぜん)とし、「若者が本気で自己研鑽する場」の必要性を感じたのです。

1987年、大学時代の同級生だった伊藤洋介氏(右)と「シャインズ」を結成1987年、大学時代の同級生だった伊藤洋介氏(右)と「シャインズ」を結成

――歌手活動や起業……これと決めたことは必ず実行に移す方だったのですね。そんな太郎氏と出会われたきっかけや第一印象をお聞きしたいのですが。

杉村 大学3年生の時でした。東京都のボランティアや国際交流を行う大学生のイベント活動に参加するなど、たくさんの人と積極的に交わる生活を送っていた私は、先輩の誘いで仲間と一緒に、当時、我究館を設立して間もない杉村太郎に会う機会を得ました。

 学生たちから兄のように慕われる優しい人だということは分かりましたが、同時に、鋭い眼光が怖くて近寄り難いとも感じました。

 年齢が10歳ほど違うこともあったのですが、言葉を取り繕っても心の奥底まで見透かされるような緊張感もありました。それで、私は我究館には入らなかったのです。

 ただ、物事の本質を見る人だから、今後何か困ったことがあれば「もしかしたら、私はこの人を頼るかもしれない」と、そんなふうに思ったのを覚えています。