正当性を西側社会のような「手続き=プロセス」ではなく、「業績=結果」を以て担保しているということだ。これはこれで「正当性」をめぐる一つの在り方だと考えるが、問題は、非制度的な要因によって担保される正当性には、持続可能性(sustainability)という一点において常に疑問符が付くという側面にある。

 即ち、仮に“お上”である共産党が経済の成長、社会の安定、雇用の保障などといった業績=結果を担保なくなった場合、正当性をめぐる前提そのものが瓦解してしまうということだ。

 中華文明・中華民族が統一と分裂を繰り返しながらも存続してきた歴史を考えてみよう。

 人民がお上(皇帝・政府)の正当性を疑い、その存在意義に納得しなくなるとき、彼らは往々にして、暴力・動乱・蜂起によって現状を動かすことを選択してきた。中国人民が現在に至るまで日常的に使用する言葉で表すと、「革命」ということになる。

「革命は起きるか否か?」という問題は壮大であり、且つ中国人にとっても、我々外国人にとってもリアリティーを持ち続ける。これまでも、いまも、そして、これからも。本連載でも継続的に議論していきたいと考えている。

「やれるか、やれないか」
それが中国社会の判断基準

 いずれにせよ、「正当性」に関しては、昨今の中国は独自のスタイルでそれを担保しているとはいうものの、制度的であるが故に持続可能なaccountability(正当性)という文脈では欠落していると結論付けられる。「業績・結果型」ではなく「手続き・プロセス型」の正当性を政治システムに注入するには、何らかの形による民主化が不可欠だともいえる。つまり、「正当性」をめぐる現状・議論は、本連載が核心的テーマとして扱う中国民主化への道のど真ん中に位置するということだ。

 最後に、「a rule of law」(法の支配)である。accountability(正当性)も然ることながら、この法の支配が何処まで浸透するかがこれからの中国の政治体制、政治システム、政治秩序の行方を左右すると私は考えている。

 フクヤマ氏は、『起源』において、中国の政治秩序には古来法の支配が欠けていると指摘する。法治主義を以て国家を統治(ガバナンス)する伝統(文化と言ってもいいかもしれない)を持ち合わせないということだ。法治の代わりに国家統治措置として力を発揮してきたのが「a strong state」(私個人の理解では、ここでいうstateとは日本人が言う「国(クニ)」のようなニュアンスを指している。「政府」、「お上」などの意味も含まれる)ということだ。

 これまで約10年間中国社会をウォッチしたが、そこで暮らす人々が、物事の是非や良し悪しを判断する際、真っ先にものさしとするのは法律やルールではなく、政治的なプリンシプルに反しているか否か、実行可能性はどのくらいあるかといった場合が多いと感じている。「やっていいかいけないか」ではなく、「やれるかやれないか」が判断基準である場合が多い、ということだ。これは多くの中国人にとってのメンタリティーであり、経済が発展して、社会が進化したからといって、そう簡単に変わるものではないと推定される。