不朽
 前回の大阪万博が開かれた1970年。高度経済成長の下で都市化が急速に進んでいる日本において、都市づくりは大きな課題でもあった。

 当時の大阪府は全国でも珍しい都市づくりの長期ビジョンを固めつつあり、大阪市と共にニュータウンづくり、流域下水道敷設、公害防止対策、産業廃棄物処理などでパイオニア的役割を果たしていた。

 その先導役が、当時の大阪府知事で、万博誘致の立役者でもある左藤義詮(1899年6月3日~1985年1月9日)だ。万博全体の主催は日本万国博覧会協会(会長:石坂泰三)、名誉会長は当時の首相・佐藤栄作だったが、左藤は開催地の大阪府知事としてインフラ整備や地元調整に尽力し、官民一体での万博成功に大きく貢献。「万博知事」の異名も取った。

 万博開催を直前に控えた「週刊ダイヤモンド」1970年1月19日号では、左藤が1985年に向けてデザイン中の新しい大阪について語っている。しかし、万博を成功させて翌年の府知事選での4選は確実視された左藤だったが、日本社会党と日本共産党の革新陣営が支持した黒田了一に敗れ、府知事を退いた。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

1985年を目標に
新しい大阪をデザイン中

――まず話の順序として万博開催時の課題だが、心配されている治安、交通、宿泊、衛生面の間題はどうか。

「週刊ダイヤモンド」1970年1月19日号1970年1月19日号より

 私は国民の良識というか、国民の愛国心を信頼して、特に共産党とかあらゆる党派を超えて万博はぜひやりたいという地元住民の熱意を信頼して、なんとかやり通したい、と思っている。

 むしろ課題は、万博の後をどうするかだ。

――それでは、アフター万博の大宿題となっている“都市づくり”について、まずアウトラインを伺いたい。