
今春、サントリーホールディングスで10年ぶりに創業家出身者がトップに就任する“大政奉還”があった。1899年に「鳥井商店」として産声を上げ、創業120年の歴史を誇る日本屈指の同族企業、サントリーの足跡をダイヤモンドの厳選記事を基にひもといていく。1963年にビール事業への挑戦に乗り出したサントリーに手を差し伸べたのが誰あろうライバルの朝日麦酒(現アサヒビール)初代社長の山本為三郎である。連載『ダイヤモンドで読み解く企業興亡史【サントリー編】』の本稿では、「ダイヤモンド」1964年3月2日号に掲載された山本の寄稿を紹介する。寄稿は「高碕達之助氏をしのぶ『偉大な常識人』」と題し、交流の深かった昭和の政財界の大物、高碕達之助の死去を悼んだものだ。実は、山本がライバルに販路を提供するという極めて異例の「助け舟」を出した背景には、高碕の関与があった。山本が高碕の人柄をしのび、後発であるサントリーのビール事業を後押しすることになった高碕との秘話を明かす。(ダイヤモンド編集部)
アサヒ社長が政財界の大物をしのぶ
高碕達之助の嫌いな言葉は「不可能」
高碕さんのいちばん嫌いな言葉は“インポシブル(不可能)”ということだったろう。“話せば分かるんだ。やればできるんだ”だから“不可能じゃないんだ”という考え方で、いろいろな問題を処理してきたと思う。
たいていの人は“こうなればこうなるじゃないか。だから、難しいんだ”と、理論を作り上げてから、モノを処理するが、高碕流は“いや、そうじゃないんじゃないか。そうするには、こうすればいいじゃないか”と、理論は後回しにして、問題を解決していく。

理論にとらわれず、解決の方法をつかみ出す人であった。
