
今春、サントリーホールディングスで10年ぶりに創業家出身者がトップに就任する“大政奉還”があった。1899年に「鳥井商店」として産声を上げ、創業120年の歴史を誇る日本屈指の同族企業、サントリーの足跡をダイヤモンドの厳選記事を基にひもといていく。長期連載『ダイヤモンドで読み解く企業興亡史【サントリー編】』の本稿では、「ダイヤモンド」1965年7月30日号の特集「株式未公開の魅力会社」内で掲載されたサントリーに関する記事を紹介する。記事では、ビール事業への参入から丸2年で、ビール事業の赤字が累計で40億円に達したと明かしている。64年のビール事業の売上高は40億円ほどで、まだまだ損益分岐点を大きく下回る。一方、祖業である洋酒事業は極めて堅調で、ビール事業の大きな支えとなっている。当時のサントリーの財務や収益の実情をひもとく。また、創業者の鳥井信治郎が味わった戦前のビール参入失敗の顛末や、再参入に際する鳥井の憂いも明かされている。(ダイヤモンド編集部)
1960年代に株式公開の大ブームも
難事業を持つサントリーは公開せず
今はむかし――。数年前の株式公開ブームのさなかに、カブト町の腕ききセールスマンたちが、垂ぜんおくあたわざる未公開株が二つあった。
一つはサントリー(当時は寿屋といった)、もう一つは竹中工務店。共に本社を大阪に置く。
サントリーは「洋酒の寿屋」として、洋酒界の名門実力者。竹中工務店は「建築の竹中」として抜群の信用力を持つ大建築業者。
昨日まで名もなき町工場主が、株式を公開した途端、数倍の値を呼んで、一躍大金持ちとなり、高級外車を乗り回す時世であった。
無名の未公開株ですら、こうした勢いだから、天下にその名を知られたサントリーと竹中工務店を、世に出せば、たちまち5倍、10倍の値を呼ぶだろう、とセールスマンたちは、あの手この手を使って、両社を勧誘したが、ついにモノにならなかった。竹中工務店のことはともかくとして、サントリーの場合は、
(1)株式公開は考えないことではないが、ビール事業への進出が決定しており、そのビールは難事業だ。少なくとも3~5年は大出血が予想される。その矢先に株式を公開することは、新しい株主に対して申し訳ないことになる。
(2)洋酒部門の利益は、世間が考える以上に多い。蓄積もある。今後ももうかる。これらを吐き出す覚悟で、ビールに進出すれば、近い将来、モノになるだろう。万一、ビールが失敗しても、他人に迷惑を掛けず、鳥井一族の責任範囲で済む。
待望のサントリービール(武蔵野工場)は、1963(昭和38)年春から出荷された。

サントリー(寿屋)は、1899(明治32)年に前社長鳥井信治郎が創立した。当初は国産ブドウ酒である“赤玉ポートワイン”の製造であった。
1923年、日本最初の国産ウイスキーの製造を開始し、29年、その醸造に成功し、サントリーウイスキーとして、初めて世に送った。
これより先、大阪工場が完成(19年)、次いで山崎工場(23年)、道明寺工場(35年)が稼動した。さらにブドウ酒の一貫生産を目指して、150町歩の山梨農場(36年)を手に入れ、同年、塩尻工場が完成した。
このころから戦時色が濃くなり、やがて戦争時代に突入。ウイスキーもブドウ酒も、軍用として召し上げられ、寿屋の経営も、暗い時代となった。そして終戦を迎えたが、大阪工場と本社建物が戦災に遭った程度で、被害は案外軽微だった。
終戦とともに、サントリーは新しい発展期に入ったが、ここで前社長鳥井信治郎が、手を付けたオラガビールについて一言しよう。