The Legend Interview不朽
 橋本敬之(1919年3月30日 - 1992年12月14日)は住友銀行常務から1973年にニッカウヰスキー副社長に転じ、その後4代目の社長を務めた。草創期のニッカは、創業者である竹鶴政孝を元日本銀行統計局長の土井太郎、元マルキン醤油専務の彌谷醇平、元朝日麦酒常務の奥村三郎といった外から来た実力者が支えてきた。竹鶴は70年に社長を退任したが、次の社長に就いた彌谷が71年に急逝する。専務だった土井が急きょ社長を務めたが、すでに70歳だったため、あくまで“次へのつなぎ”と公言していたようだ。その意味で、橋本は入社当初から社長含みだった。橋本をニッカに推薦したのは同じく住友銀行出身で朝日麦酒社長だった高橋吉隆(“ビール王”と呼ばれた高橋龍太郎の長男)といわれている。

 創業者の竹鶴は、サントリーホールディングスの前身である寿屋でウイスキー製造に従事し、本場のウイスキー造りを学ぶために英スコットランドに単身留学。帰国後は留学先で結婚した妻・リタと共に、北海道余市町で純国産ウイスキーの製造に勤しんだ。NHK連続テレビ小説「マッサン」のモデルとしてもおなじみだ。

「週刊ダイヤモンド」1985年1月19日号に掲載されたインタビューで、橋本は竹鶴との思い出を語っている。竹鶴は79年8月に亡くなったが、橋本はその直後、竹鶴がウイスキー製造を学び、恋に落ちたグラスゴーを見ておきたいと、英国に行ったという。また、竹鶴が会長として存命のとき、竹鶴が愛着を持っていた麻布工場の売却についての了承を、恐る恐る得にいったエピソードも披露している。

「最初は行くのが嫌だから、副社長に『君、ちょっと行けよ』と言ったら、『それは社長の仕事ですよ』と言うから、しょうがないから行って……」というのである。当時の副社長というのは竹鶴の養子である竹鶴威だ、結局、橋本は威に譲るまで74~85年の間、ニッカウヰスキーの社長を務めた。(敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

竹鶴が学び、恋を得た
スコットランドを訪問

「週刊ダイヤモンド」1985年1月19日号1985年1月19日号より

 私は5~6年ぐらい前、竹鶴さんがどういう所で勉強して、どういう所で恋を得たのか見てきたいと思ってイギリスへ行ったんです。

 グラスゴー大学というのは田舎の小さな大学だと思って行ってみましたら、キャンパスは大きいし、非常に大きな山があって、一山キャンパスです。

 東大など問題にならないですね。私は、竹鶴さんはこういう所で勉強されたのかと思った。