「いつも浅い話ばかりで、深い会話ができない」「踏み込んだ質問は避けて、当たり障りのない話ばかりしてしまう」上司や部下・同僚、取引先・お客さん、家族・友人との人間関係がうまくいかず「このままでいいのか」と自信を失ったとき、どうすればいいのでしょうか?
世界16カ国で続々刊行され、累計26万部を超えるベストセラーとなった『QUEST「質問」の哲学――「究極の知性」と「勇敢な思考」をもたらす』から「人生が変わるコミュニケーションの技術と考え方」を本記事で紹介します。

▼「ただ観察すること」の難しさ
受講者には、最初に「観察する」というタスクを与えた。
馬場の端に立って馬を見てもらい、「何が見えますか?」という質問に答えてもらうのだ。
受講者は、たいてい次のように答えた。
「好奇心をもっています」
「怖がっています」
「人を乗せる気にはなっていません。目をそらしているからわかります」
「草を食《は》んでいるので、お腹を空かせています」
観察対象が自分の馬である場合、答えは詳しくなった。
「あの子は今気難しそうにしています。よくああなるんです」
「あなたがいるから、恥ずかしがっています」
「この馬は耳がよくて雑音が気になるので、それで今、少し落ち着かない気持ちになっています。ほら、耳がピクピク動いているでしょう?」
けれども、私が尋ねたとおりの答えを返してくれる受講者はめったにいなかった。
「何が見えますか?」としか尋ねていないにもかかわらず、「左に向かって歩いています」「遠くを見ています」「草を食べています」「耳は尻尾の方を向いています」といった、ただ観察したことだけを答える人はほとんどいなかった。
つまり、自分の解釈を加えていたのだ。
私が観察と解釈の違いを説明すると、受講者は理解してくれた。
彼らは、客観的に見たものを説明していたのではなく、馬の行動を自分なりに解釈した結果を説明していた。
観察に集中すると、受講者の解釈も純粋になった。
彼らの解釈は、確固とした事実ではなく、まだ証明されていない仮説のようなものになった。
馬が落ち着かない、怖がっている、怒っているとは、誰にも断言できない。
「おそらくそうだろう」と推測できるにすぎない。
私は、乗馬の仕事を通じて発見したことは、私たちが他人を見る方法にも当てはまることに気がついた。
人が相手の場合も、馬が相手の場合と同様、純粋な観察に徹底するのはとても難しい。
いつの間にか、群がる鳩たちのように、解釈が脳内を飛びまわっているのだ。
ソクラテス的な態度を身につけるためには、目の前の現実を客観的に観察できるよう感覚を訓練しなければならない。
脳に介入させたり、観察したことを自分が創った物語に基づいて解釈したりしてはいけないのだ。
(本記事は『QUEST「質問」の哲学――「究極の知性」と「勇敢な思考」をもたらす』の一部を抜粋・編集したものです)