
ベイン・アンド・カンパニーやボストン・コンサルティング・グループ(BCG)を渡り歩き、大前研一氏に「生まれながらの戦略コンサル」と称された男がいる。サイモン・クチャー&パートナーズ日本代表の栃本克之氏。業務改革やIT導入にとどまらず、企業の根幹に切り込む“真の戦略”とは何か――。長期連載『コンサル大解剖』の本稿で、栃本氏がその本質を語り尽くす。(ダイヤモンド編集部副編集長 重石岳史)
銀行で感じた“合理性の欠如”がコンサル転身の原点に
黎明期のベインでたたき込まれた「20代で戦う覚悟」
――栃本さんは1986年に富士銀行に入行し、3年後にベイン・アンド・カンパニーへ転職していますが、なぜ安定した銀行を辞めてコンサルティングの世界に飛び込んだのですか。
大学で政治学を学び、新聞記者かアカデミックな道に進もうと考えていたのですが、ちょうど就職が売り手市場だったこともあり、さまざまな企業から声が掛かりました。その中で富士銀行の説明会に参加し、当時リクルーターだった西浦三郎さん(現ヒューリック会長)の誘いもあって、内定第1号をいただいたんです。
でも実際に入行してみると、どうにも合理性のないことが多かった。例えば真冬の朝8時、コートも着ずにスーツ姿で住宅ローンのパンフレットを配らされました。私は「そのプロモーションの効果はどう測るのか」「本部では誰かがそういったことを検討しているのか」と尋ねましたが、上司からは「銀行員が寒い中で頑張っている姿をお客さまに見せるのが目的だ」と返されてしまった。
システムも明らかに遅れていたのに「手書きの通帳の方が、心がこもっている」と言い張る担当者もいたりして、「これはちょっと違うな」と(笑)。
今、振り返ってみれば、銀行に入ったからこそ学べたことが多々あり、それが今の自分をつくったともいえます。実は退行後も富士銀行のプロジェクトをコンサルとして任されたことがある。良い意味で懐の深い組織だったと思います。
――1980年代当時のコンサルティング業界は、どのような雰囲気でしたか。
まさに黎明(れいめい)期でした。人材層も薄くて少数精鋭。「どこで戦って、どう勝つか」という、戦略寄りのテーマが多かったです。今のように「業務改善」や「デジタル導入」ではなく、もっと泥臭く企業の本質的な方向性を議論していました。
若手も徹底的にストレッチさせられました。私のように20代半ばでも、クライアント相手に専門家として議論をリードしなきゃならない。今では考えられないくらいのむちゃぶりもありましたが、それが成長につながったと思います。
旧富士銀行を退行後、30年以上にわたって戦略コンサル業界に身を置く栃本氏。業界の現状について、「今の日本で本当に戦略コンサルティングができている会社は驚くほど少ない」と断言する。その考えを生んだのは、業界の“レジェンド”との出会いにあった。次ページで明らかにする。