「1週間もしたら
見えるようになると思う」
しかし、のんきなことばかりを言ってもいられなかった。フリーランスで働いていた僕には、個人で抱えている仕事がいくつかあったのだ。そのひとつは、営業とPRを担当していたジュエリーブランドNymphs(ニンフス)のもので、4日後から始まる展示会で使う品々が僕の手元にあった。
これはデザイナーの林さんに連絡をする必要があるなと思い、iPhoneのSiriに「林さんに電話をかけて」とお願いをしてみた。このときほどSiriの存在を便利だと思ったことはない。
いくつかのコール音のあと、林さんが電話に出た。僕は努めていつもどおりの軽い調子で「今朝、目が覚めたら目が見えなくなっちゃって、たぶん展示会には間に合わないと思うんです。でも1週間もしたら見えるようになると思うので、最終日に間に合えば顔を出しますね」と林さんに告げた。
彼は今でもこのときの会話をもち出して「1週間で見えるようになるって言ってたのに、なかなか見えるようにならへんな」と言って笑う。
病院へ行く準備をしている横で、パパの状況などつゆとも知らず、いつもどおりマイペースに過ごしている娘を近くに住む義母へと預け、生後3ヵ月の息子は、僕らと一緒に連れていくことにした。

これもこの原稿を書くにあたりわかったことだが、妻は、息子と一緒に病院へ行ったという記憶が曖昧らしい。僕が「一緒だったよ」と伝えると「そうだった?あんまり覚えてないや」と言っていた。「なんだなんだ、記憶が曖昧になってしまうくらい、内心ではやっぱり動揺していたんじゃないか」と僕はニヤニヤしてしまうが、それは口にしない。
口にしたところで、彼女に「そんなことないよ」と、いたって冷静に否定されてしまうことは目に見えているのだから。