目が見えなくなることと視覚障害者になることは、事実として同じであっても、心情的には違うレイヤーにあり、受け入れがたさもまた別のところにあった。
それは自分のどこかにある障害者に対してのバイアス、もっといえば、多かれ少なかれある差別意識からくるものなのだろう。家族や友人に障害者がいて、ふだんは特に何も差別意識がないと自認している人であっても、いざ自分が障害当事者になるとしたら、きっとその潜在的な差別意識が顕在化し、自覚するに至るはずだ。
今ではこの手帳を魔法のアイテムのように感じている僕だが、当時は持ちたくない、まっぴらごめんだね、という抵抗感が強かった。しかし手帳を持つことで得られる福祉サービスや、医療費における優遇を妻からレクチャーされるうちに、それならば持っていたほうがいいね、と受け入れられるようになった。情緒的になるよりも、そこは理性的に判断したほうが賢明といえるだろう。
白杖を持とうと決めた
ふたつのキッカケ
さらに白杖を手に入れたのは、見えなくなってから半年が過ぎたころだった。それまでつかんでいたのは杖の持ち手ではなく妻の右腕、白杖に対しても手帳と同じように、どこか心理的な抵抗があった。しかしこれはいよいよ白杖を持ったほうがいいな、と思う出来事が、立て続けにふたつ起こった。
ひとつ目の出来事は、近所のイオンに家族で出かけたときのこと。「ここでちょっと待ってて」と通路に置き去りにされ、その場で棒立ちしていると、向こうから歩いてきたマイルドでヤンキーなカップルの女性からすれ違いざまに「ボーッと突っ立ってんじゃねえよ、邪魔なんだよ」という言葉を、タバコと安っぽい柔軟剤の香りとともに放たれた。
あ、なるほど、そうかそうか。まわりの人から見たら、僕の目が見えないということは見えない、つまり、わからないのだな、と妙に納得してしまった。
そしてふたつ目の出来事は、ドラッグストアに家族で出かけたときのこと。「ここでちょっと待ってて」と通路に置き去りにされ(既視感)、ボーッと突っ立っているのも手持ち無沙汰だと思った僕は、手を伸ばして棚に並べられている商品を取り、これはなんだろうと左目の前1センチまで近づけてみた。すると、なんとそれは生理用ナプキンだった(目の前1センチであれば、大きく書かれた文字は読めるのです)。