日産自動車社長 辻 義文
 1995年3月25日号の特集「日産危機の真相」の中で掲載された当時の日産自動車社長、辻義文(1928年2月6日~2007年2月11日)のインタビューである。

 バブル崩壊以降の日産は93年3月期決算で262億円の赤字に陥り、93年2月に人員削減や工場閉鎖など大胆なリストラ策を発表した。その際に示された座間工場(神奈川県)の閉鎖が、2年後となる95年3月22日に実施されたタイミングでの特集である。数々のリストラを進めながらも、94年3月期はいったん経常黒字に戻したが、再び95年3月期は600億円の赤字となっていた。

 日産の蹉跌は、決して1社だけの問題ではない。国内の自動車産業全体にも影響を及ぼしている。特集の中では、ある自動車メーカー経営者による「もし2位メーカーの日産がしっかりとしていたなら、われわれの中にはなくなっている会社もあっただろう。日本に11社も自動車メーカーが残っているのは日産のおかげだ」というコメントもある。70年代後半から米国市場で日本車が確固とした地位を獲得した背景には米大手自動車メーカーのいわゆる「ビッグスリー」の衰退があったが、同じく、日本国内での長期的な日産の低迷が、下位メーカーに息をつく暇を与えたというわけだ。

 日産が20年間シェアを落とし続けてきた最大の原因は、「失敗経験にしても、成功経験にしても、それが生かされていない。そのため同じ失敗を何回も繰り返す」と辻はインタビュー内で反省している。

 この後も日産は4年連続の赤字となり、98年には2兆円もの有利子負債を抱え、経営危機に陥る。そして99年3月にフランスのルノーと資本提携し、同社の傘下に入った。カルロス・ゴーンCEO(最高経営責任者)の下で「日産リバイバルプラン」を策定し、2000年代初頭は黒字化を実現するが、グローバル投資や新興国投資の拡大で再び経営課題が顕在化。24年度、主力市場である米国、中国での販売不振や収益悪化によって営業利益が大幅減となり、6708億円の最終赤字を計上するに至った。25年には国内外7工場閉鎖、2万人規模の人員削減など、ゴーン時代を上回る大リストラを発表している。

 辻時代に振り返った20年間の「失敗体験、成功体験を生かせない体質」は、その後の30年も変わらず続いている。(文中敬称略)(ダイヤモンド編集部論説委員 深澤 献)

日産の最大の問題は
失敗経験、成功経験を生かせないこと

――最近の急激な円高で、経営計画の見直しをする必要は?

 3~4日で10円も上がったのでは、対応のしようがない。計画をいじったところで、また、3日で10円下がることもあるのだから。無駄なことはあまりしない方がいい。

――2年前の経営計画では120円が前提でしたね。

1995年3月25日号1995年3月25日号より

 座間工場を閉鎖し、国内生産200万台体制で、3000人を削減するという計画だった。現在は国内生産180万台(輸出80万台を60万台へ)、海外生産120万台の計300万台。国内生産180万台はプラスに振れることがあっても、マイナスに振れることはない。

――国内工場の生産能力は220万~230万台ありますね。

 工場によって稼働率は120%のところもあれば、60%のところもあるが、80%の稼働率で回すのが一番いいと考えている。工場を閉めるとか、国内に新設することはない。国内生産180万台は下限であって、座間に続く工場閉鎖はない。

――現在の生産は160万台だが、180万台は可能なのか?