対照的な子ども時代
文化的な家庭への好奇心
山田 徹子さんの少女時代について、渥美さんから尋ねられたことはありましたか?
黒柳 うーん、どうだったかな。聞かれたかもしれない。とにかくたくさんお話ししていましたからね。
山田 渥美さん自身は、お父さんは新聞記者だったけれど失業して、家でゴロゴロしていた。お母さんが内職することで家計を支えていた。一方で徹子さんは芸術家のお父様がいらして、オペラ歌手志望だったお母様がいらして、対照的な生活をしていたでしょう。
黒柳 本当にね。
山田 渥美さんはね、すごく憧れがあったと思うんですよ。もちろん妬みがましい気持ちとは違う。文化的な家庭というものへの強い好奇心ですね。
とても貧しくて
いつも空腹な“欠食児童”だった
黒柳 うん、そうだと思います。今考えてみるとね。「私の父親はヴァイオリンを弾く」とか、「クリスマスのお祝いをやる」とか、「誕生日のときにプレゼントする」とか……そんな話をすると渥美さんは、「そんなもんかい」という感じで聞いていた気がします。そのとき全然気が付かなかったから気にも留めずに、どんどん話していたけれど。
山田 渥美さんの小学校時代の同級生の話を聞いたことがあります。渥美さんの家はとても貧しくて、学校にお弁当を持って来られない日もあったそうなんです。そういう子どもたちは、当時“欠食児童”と呼ばれていた。戦前のことですね。それで渥美さんたち“欠食児童”は、空腹をごまかすために廊下でワーワー騒ぐしかなかった。
だけどね、渥美さんの小学校の当時の女性の校長先生はとても立派な人で、子どもたちを見かねて近所の農家を回って、玄米を手に入れてきたんだそうです。なかなか手に入らない時期だったけれど、一生懸命になってね。それを用務員さんに炊いてもらって、味噌汁とお新香と一緒に食べさせていた。その中に必ず渥美さんもいたと聞きました。
黒柳 そうなのね、知らなかった。小さい頃、体が弱かったとは聞いていましたけれど。







