勝てないとわかっても
引き返せなかった理由
イノベーション理論で有名なクレイトン・クリステンセンが「埋没費用」という視点から、失敗の兆候が見えていても、いまさら撤退できないと、追加投資や事業の継続を正当化してしまう組織の不条理を指摘しています。
まさにそういうことが起こったのです。背景の一つとして、ドイツへの過大評価があり、その力に幻惑されてしまったことが大きいと思います。
当時は日中戦争の最中でしたが、何をやっても蒋介石を屈服させられず、戦力の限界から重慶まで進撃できない状況でした。戦いには勝っているのに、蒋介石は降参しない。なぜなら、ソ連と英米が援助しているからだと考えられました。
軍人の一部に、これは日中間では処理できない戦争で、世界秩序の大きな変動を待って解決しなければならないと考える者が出てきました。
ドイツがヨーロッパを席巻した時、日本には、これこそ世界秩序の大きな変動と見えたのです。この機運に乗って、新秩序の構築に向かえば、アメリカは戦意喪失し、中国にも勝てるだろうと安易に結論づけた。しかし、それは極めて楽観的で、実現性の低いシナリオでした。
東條英機は、対米交渉がうまくいかない場合の開戦を承認した御前会議での決定の白紙還元を命じられ、何度も会議を開いて、アメリカと戦う主戦力の海軍に「戦争はできません。勝てません」と言わせようと仕向けました。海軍は非公式には「勝てない」と言うのですが、公式の場ではいっさい明言しない。というのも、それまで海軍には潤沢な予算が割り当てられ、アメリカと戦うためにこれだけ予算を使ったのだから、いまになって「戦えない」とは言えないという組織的な理由があったからです。
そして開戦時、政府よりも軍よりも一番強硬だったのは世論でした。国民は「本当は戦争に反対していた」とよくいわれますが、当時の新聞、雑誌の論調を見ると、国民が戦争を嫌がったという話はほとんどなく、むしろ政府の軍事的な積極性の欠如を批判していた。東條英機についても「なぜあれほど弱腰なのか」と言わんばかりの論調でした。
また、日本人の気質として「できません」と言わず、限られた資源の中で何とかしようとする傾向が見られます。たとえばイギリス軍なら、「必要な資源を用意してくれなければ作戦はできません」と言いますが、日本軍は、資源がない中でやるのが使命だと考えてしまう。
松岡洋右の国際連盟脱退も同様の例ですね。1931年の満洲事変を受けて国際連盟が設置した調査委員会、「リットン調査団」の報告書は満洲事変を日本の自衛的行動と認めず、その不当性を指摘しましたが、日本はそれを不服として、国際連盟から脱退するきっかけとなった。国際世論から孤立していく一つの転機となりました。
日本は何も脱退する必要はなく、批判が出たら「ああ、そうですか」と返してやり過ごせばよかった。ですが、大見得を切って脱退してしまいました。
このように、数々の要因が重なり開戦に至ったわけですが、ただ、なぜ勝てないとわかっていながら開戦したのかという指摘には後知恵が含まれており、その後の歴史を知る我々だから言えることであることを忘れてはならないでしょう。
開戦後も引き返すべき場面が何度もあったにもかかわらず、なぜ戦闘が繰り返され、続いていってしまったのでしょうか。そこには、あらゆる情報が止めたほうがよいと伝えているにもかかわらず、もはや止められないという気持ちと矛盾して、葛藤を感じる「認知的不協和」という心理があったように思います。
やはり開戦直後の初期作戦が成功してしまったことです。この初期作戦の成果はグランドデザインの成功を予感させるものでした。資源地帯を押さえ、主要な戦略地域を制圧し、南方との交通線も確保しました。先ほど申し上げた長期不敗体制の構想は早い段階で具体化し、これで自信を持ってしまいました。
ところが、どの段階で戦争を終息させるかという出口設計が不在のまま走り続けたため、組織の惰性のようなものが生まれたのです。成功後の戦い方、終わらせ方を考えていなかったということです。
その後どうするかを考えるに当たって、陸軍と海軍の考え方は大きく食い違っており、合意形成はできませんでした。陸軍は、「東南アジアは押さえたのだからもういいだろう」と考え、彼らの視線はもう中国とソ連に向いていました。つまり中国が主戦場であり、究極の敵はソ連だと思っているので、それに備えるために兵を引こうとしました。
一方の海軍は、長期不敗体制をつくることよりも、アメリカとの決戦を念頭に、もっと積極的に前に出ていこうとしました。結局、のちに戦局の主導権を失う契機となったミッドウェー作戦やガダルカナル攻防に突き進み、最初のもくろみを裏切る事態が生じてしまいました。こうして初期構想の長期不敗体制は難しくなり、戦線は泥沼化していったのです。
最初の成功で満足し、後は石油を確保して引き揚げれば戦争を止められたのではないかという指摘もあります。
そんなことは絶対にありえません。戦争には相手があります。日本が仮に占領地を押さえたからといって米英が「では、終わりにしましょう」と応じることは考えられません。自国の都合だけで戦争を止められると考えるのは甘い発想です。
制度面では統帥権の独立が問題だったようですね。
東條は開戦時、総理大臣と陸軍大臣と内務大臣を兼任しました。なぜ内務大臣(大まかに言えば、現在の総務省+警察庁+内閣府のトップを兼任したような存在)まで兼ねていたかというと、憲兵と警察を掌握するためです。開戦しないと決まった場合の陸軍内の反発や国民の不安定な状況を憲兵と警察で抑えようと考えてのことです。しかし、結局はその力を使うことなく開戦してしまった。
東條は独裁者であるかに見えながら、実際にはそこまでの権力は持っていませんでした。軍事における最高指揮権である「統帥権」が独立していたせいで、作戦には口を出せず、海軍にもほぼ干渉できませんでした。
統帥権の独立は、明治に成立した制度ですね。明治期の戦争では日本は上首尾に戦っています。なぜ、当時の指導者にとって統帥権の独立は問題ではなかったのでしょうか。
統帥権の独立は本来、政治の党派的影響が軍事に及ぶことを防ぐための制度でした。明治の指導者たちはその本来の目的を知っていたので、制度を弾力的に運用したのでしょう。
また、明治の指導者たちは皆、武士出身で軍事についての基礎的な素養がありました。つまり、政治と軍事両方に理解が及んでいました。しかし、大正を経て昭和になると、政治家は東大や京大、早慶出身、軍人は陸海軍の士官学校出身と、専門的にそれぞれの分野を歩んだエリートが主要ポストを占めるようになります。そのため政治家は軍事・安全保障のことをあまり考えず、軍人は政治・経済のことをよく知らないというように、全体に目が行き届く人たちはなかなかいなかった。
また、シビリアンコントロール(文民統制)という概念も戦前の日本にはありませんでした。この考え方はそもそも戦後に入ってきたものです。







