敗戦を受け入れることが、なぜ遅れたのでしょうか。1944年夏のサイパン陥落の時点ではできなかったのでしょうか。

 止めたくても止められなかったというのが本当のところです。日本がアメリカと戦ったのは1941年12月から1945年8月までの3年半余りですが、戦力差は歴然としていたにもかかわらず、よくこれほど長く戦えたものだと思います。

 決定的な転機は、ご指摘のように1944年のサイパン陥落です。東京がアメリカ空軍の爆撃圏内に入り、本土空襲が不可避となり、敗北が現実味を帯びてきました。たらればの話ですが、ここで止めていれば、空襲の被害はもっと少なく、沖縄の被害もなかった、原爆も落とされることもなかった、ソ連による中立条約違反の侵略もない、シベリア抑留もなかったでしょう。しかし、終戦を決断できなかった。

 戦争というものは、長く激しく戦えば戦うほど相手に対する敵意・憎悪が増幅し、そう簡単に止められません。それに相手側は無条件降伏を突き付けてきているわけで、とはいえ「負けました」「では、止めましょう」というわけにはいきません。

 もちろん、和平を考えていた人たちは大勢いました。軍内部でも1945年春辺りから、「もう負けだ」と言う人たちがかなり出てきた。でも、まだ時間の余裕があると思っていたこともあり、その時点では敗戦を決意できませんでした。

 何が一番決断を遅らせたのかというと、無条件降伏だけは避けたいという切実な思いでした。

 第1次世界大戦で敗戦したドイツの例を見て、日本の軍人たちは、「敗戦国は徹底的に蹂躙される」という恐怖心に支配されていました。また、無条件降伏により天皇制が強制的に廃止され、国土が割譲されるのではないかという不安が指導部を硬直させました。

 ですから、講和条件をできるだけ穏便なものにしたい。そのためには、相手に一泡吹かさなければならない。「一撃和平」と言うのですが、一撃を与えた後に和平へと持っていこうと考えたのです。

 結局は負け戦となったフィリピンのレイテ島での決戦を天王山と称したのも一撃を期してのことですし、沖縄も表面的には本土決戦の準備時間を稼ぐためだと説明されてきましたが、同様の理由です。実際、天皇も1945年6月辺りまでは一撃和平論者でした。

 それが明らかに変わったのは1945年の6月辺りに参謀総長の梅津美治郎が中国に行って、関東軍と中国にいる日本軍の戦力がガタ落ちしていると報告した時からです。天皇はそれを聞いて、本土の軍隊はさらにひどいだろうことに気づいたのです。

 海軍の査閲使、長谷川清という人が、本土の海軍基地を点検した際にも、海軍はもう戦力を保持していないと報告しました。もはや本土決戦どころではないし、相手に一撃を与えるなどとうてい無理であることを天皇も納得しました。

 陸軍は最後まで徹底抗戦にこだわったといわれています。

 最近の研究では、陸軍の抵抗という言説には疑義が呈されています。実際、ポツダム宣言の受諾に際して、陸軍内部でも抵抗勢力は思ったほど多くなかったのです。

 一部の狂信的な軍人が、反乱を起こしかけ、阿南惟幾陸軍大臣がクーデターを抑えるために自決するという一幕(宮城事件)がありましたが、それくらいでした。天皇が止めようと言ったので、皆それに従ったのです。陸軍の頑迷さだけが終戦の決断を遅らせたとはいえないでしょう。

 もし本土決戦になれば、とんでもないことになっていたでしょう。天皇は、戦争を続けて本土決戦になるならば国体の護持どころではない、国が滅びると述べられた。事実アメリカ軍には、日本がポツダム宣言を受諾しなければ農村部を爆撃して食料を断つ計画も用意していました。その危ういところで、何とか終戦を決断できたのです。

 空襲で社会の雰囲気も変わったのではないですか。

 空襲と疎開を経験した国民の間には厭戦感情が広がり、指導部もその空気を無視できませんでした。そのような中、1945年8月、ソ連が参戦し、広島と長崎に原爆が投下されました。これで継戦、より正確に言えば本土決戦で敵に一撃を与えることはもはや不可能と、ようやく終戦が決断されます。

 その際、終戦への導き方としては、士気を損なうことなく、しかし天皇の聖断で止めるというのが、当時の首相鈴木貫太郎の考え方でした。士気が失われると国内が混乱する。したがって、士気を保ちつつ、かつ天皇の判断で和平に持ち込むという考え方を選択したのです。

 これまでお話を伺ってきて、あらためて浮かび上がってきたのは、天皇の役割と関係者をまとめられる意思決定機関の欠如ではないでしょうか。

 端的に言えば、日本の意思決定システムには大きな欠陥がありました。たとえば、最高意思決定機関であったかのように誤解されることもある「御前会議」ですが、実は憲法のどこにも規定されていません。法的権限もありません。

 御前会議は、明治期から行われていたもので、誰を召集するかも自由で柔軟に運用されてきました。憲法上の規定はありませんが、そこで決まったことには誰も反対したりしません。実態としては、最終意思決定機関といえるでしょう。

 召集するのも天皇ではありません。政治・軍事のトップたちが「御前会議を開いていただけませんでしょうか」と申し出ることで開かれていました。ただし、終戦時だけは天皇みずからが開きました。そうでもしなければ、終戦の合意ができなかったからです。

 天皇はそもそも戦争に反対だったといわれています。

 明治天皇も昭和天皇も戦争嫌いでした。たとえば、明治天皇は日清戦争に反対し、「朕の戦争ではない」と述べられました。おそらく日露戦争にも反対だったでしょう。

 昭和天皇も、太平洋戦争開戦をめぐる御前会議では、戦争反対と表立って言えませんから、明治天皇の御製「よもの海 みなはらからと思ふ世に など波風のたちさわぐらむ」(世界の人々をみな兄弟姉妹のように思っているこの世に、なぜ争いの波風が立ち騒ぐのだろうかの意)という世界平和を示唆する歌を詠み上げ、「朕はこれを毎日拳々服膺(心に銘記して忘れないこと)している」と述べられたそうです。これを聞けば、一同は、天皇は戦争反対なのだとわかるはずで、わかっていながら開戦を決定したわけです。

 東條英機を首相に引き上げたのは、天皇と木戸幸一内大臣で、「天皇に忠実な東條ならば天皇の意向に沿って開戦に反対してくれるだろう、開戦決定を白紙還元してくれるだろう」と踏んでいたのです。しかし、逆の結果になってしまいましたが──。東條もそのことがわかっていても、誰も開戦に反対しないので総理としてその合意に従わざるをえませんでした。

 しかしながら東條は、天皇の胸の内を知りながら、逆の行動をしてしまうとは、不忠の臣のそしりを免れないのではないかと葛藤していました。

 いずれにせよ、決定権はその当時、政府と軍にあった。政府と軍が開戦に合意すれば、天皇もその合意に反することはできませんでした。「お上の意思は和平にあり」と誰もが承知していながら、閣議でも、大本営政府連絡会議でも、御前会議でも、戦争回避の合意ができなかったわけです。