辻トシ子が「三十六会」を立ち上げた
「1961年」というタイミングに重大な意味が!?

 晩年の辻トシ子は、かつての政治をこう振り返った。

「政治家は一軒の家と同じなのよ。(中略)裏口の役目をする人だとか、それぞれに役割分担があったのよ。綺麗なことを言える人は玄関に回るとかね」(「保守本流の女帝 辻トシ子九十二歳がみた永田町」文藝春秋、2011年2月号)

 マンション住まいが増えた現在、「玄関」や「裏口」のニュアンスが伝わりにくいかもしれない。「裏口」から出入りするのは、かしこまった内容ではない、日常業務に関わる人たちを指すだろう。あるいは「玄関」から出入りする人たちでも、扱いにくい話題は「裏口」から持ってくるかもしれない。

 1960年の自民党総裁選では、池田陣営の大平正芳の下で、辻トシ子は裏方として活動した。新首相になった池田から、秘書官にならないかと誘われた、それは票集めの舞台裏をよく知っていたからだろう、という。池田新内閣で幹事長に就任した益谷の下で働く辻トシ子を指して「辻幹事長、益谷秘書」とも評された。こうして永田町での存在感を増した辻トシ子は、1961年に益谷から独立し、三十六会を構える(以上、ノンフィクション作家の石井妙子が辻トシ子にインタビューした連載「忘れえぬ女(ひと)たち」〈文藝春秋「本の話」所収〉)。

 この頃の出来事として、池田内閣で官房長官を務めた大平は、ロッキード事件の折に、宏池会の栗原祐幸代議士にこう振り返った。

「まさか田中君が外国から金をもらった容疑で、逮捕されようとは夢にも考えていなかった。実は俺が池田内閣の官房長官のとき、アメリカのCIAから、選挙に必要なら軍資金を供給するという申し出をうけたことがある。このとき、金は欲しいと思ったが、外国の金は絶対に受け取ってはいけないと心に鞭打ってことわった」(栗原祐幸『大平元総理と私』〈廣済堂出版、1990年〉162―163ページ)

 大平が官房長官を務めた期間は1960年7月から1962年7月までである。この間、1960年11月20日に第29回衆議院議員総選挙が行われた。つまり、大平が資金提供の申し出を受けたのは、1960年7月から11月の間の出来事と推定されよう。池田内閣の発足直後に大平官房長官が断ったため、前政権のようにCIA(米中央情報局)が自民党政権を直接的に支援する形は取れなかった。その代替措置として、翌年、辻トシ子ルートが開設された、と考えることは可能だろうか。

 民間コンサルタントである辻トシ子の顧客は日本企業に限定されるわけではない。国内外のさまざまな顧客から資金を集め、政財界に働き掛ける。かつてOSS(米戦略情報局。CIAの前身)に籍を置いたK・スガハラが関与するフェアフィールド・マックスウエル社を経由して、辻トシ子へと資金が流れたこともあっただろう(国際日本文化研究センターの機関研究員、進藤翔大郎による論考)。つまり日本にはルールが存在しないロビイングの最前線で、スガハラの出先として、辻トシ子が活動していたようにも思える。もちろん辻トシ子の働き掛けはあくまでも民間の枠内にとどまっている(はずである)。

 このように考えると、辻トシ子は、日本企業のみならず、外国からの資金提供(政治献金?)を、三十六会を介在させることで、合法的な献金に変える、いわば「濾過器」の役割を果たしたのかもしれない。

「裏口」に徹した辻トシ子の人生
多くを語らず秘密は墓場まで持っていった

 宏池会の「看板」(=会長)は、池田や大平、宮澤喜一ら歴代首相と移り変わり、岸田文雄会長の下で解散を決定した。辻トシ子は最後まで「裏口」に徹したように思われる。

「やっぱり裏は裏でずっといかなきゃね」(前掲「保守本流の女帝 辻トシ子九十二歳がみた永田町」)

 自らの果たした役割を語ることなく、官民が新型コロナウイルスの対応で混乱する、2020年3月19日に辻トシ子は世を去った。(敬称略)

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