クローズアップ商社丸紅が出資、運営するインドネシアのパルプ工場(写真提供:丸紅)

病害、市況低迷、巨額赤字――。20年にわたり「失敗事業」と見なされてきた丸紅のインドネシアの植林・パルプ事業の「ムシパルプ」。東京都の1.3倍に及ぶ広大な植林地で樹種転換を進めた結果、累積投資は数千億円に膨れ上がった。IRR(内部収益率)やROIC(投下資本利益率)を重視し、数年で成果が出なければ撤退するのが現代商社の鉄則だが、なぜ丸紅は既存の投資基準の枠に収まらない判断を下してまでこの地にしがみ付いたのか。長期連載『クローズアップ商社』の本稿で、担当幹部への直撃取材で見えた、鉄鉱石やLNGとは異なる「再生可能資源」のポテンシャルと、丸紅が手にした三つの価値を解き明かす。(ダイヤモンド編集部 金山隆一)

負の遺産からマジョリティ奪取
異例の「単独オペレーター」への道

 インドネシアの南スマトラで紙パルプを生産する大規模な植林事業が始まったのは1970年代後半。荒廃する南スマトラの森林を再生できないかという、日本の政府開発援助として始まった。

 この植林で紙パルプを生産するプロジェクトが立ち上がったのは90年。スハルト大統領(当時)のファミリー企業と、大統領の金庫番といわれた華僑プラヨゴ・パンゲスツ氏率いるバリト・パシフィック・ティンバー社が紙パルプを生産するTEL社を設立。91年にはバリト社とインドネシア林業公社が30万ヘクタールの植林を手掛けるMHP社も設立した。

 丸紅はまず95年にTELに約16%の出資を決めた。当時の丸紅は少額出資で事業に加わり、プラントを受注するのが狙いだった。2000年には年産50万トンのパルプ工場が完成。03年に丸紅はMHPにも約14%を出資した。

 大きく踏み込んだのが05年。丸紅のプラント部隊は90年代前半、スハルト大統領の肝いりで進められた同国初の総合石油化学事業チャンドラアスリに資本参加し、860億円を投じた。しかし97年のアジア通貨危機や高コスト体質で赤字が続き、05年に丸紅は保有する約24%の株式を売却。事業の損失は600億円以上とされたが、丸紅は不良資産の処理に踏み切った。

 このとき、チャンドラ株売却の見返りとして、バリトとの株式交換でムシパルプ株を取得し、丸紅はTELに85%、MHPに100%出資した。負の遺産を整理し、あえて火中の栗を拾う形でマジョリティを握った。

 商社の資源ビジネスの多くは、出資比率を10~20%程度のマイナーにとどめ、主操業者(オペレーター)は資源メジャーが担う形が一般的だ。だが丸紅は、川上の植林から川下の紙パルプ生産まで自らオペレーターシップを握り、植林・紙パルプの有力企業をパートナーとせず、事業を単独で進めた。ここからが苦難の始まりだった。

 プラントの初期投資が重くのしかかっただけでなく、当初選んだ植林樹種も誤算だった。ユーカリに比べ育成の手間がかからないとされたアカシアは、南スマトラでは根腐れなどの病害が広がり、立ち枯れが相次いだ。結果としてパルプ工場に必要な木材を自前で賄えず、外部調達に頼る高コスト体質に陥った。

 ユーカリへの植え替えを始めたのは2012年。「完全に植え替えが完了したのは18年。足かけ6年かかった。23年になってようやく100%パルプ工場に供給できるようになった」と語るのは、21~25年にMHP社長を務めた丸紅フォレストリソース事業部の榎本卓哉部長だ。

 自らハンドルを握る「主操業者」として再出発した丸紅だったが、その前途には想像を絶する困難が待ち構えていた。選んだユーカリの壊滅的な病害、高コスト体質、そして終わりの見えない投資。泥沼の様相を呈する中、12年に決断した「ユーカリへの転換」が、事業の運命を大きく変えることになる。

 しかし、その転換自体が、商社マンの根性を試す「新たな課題」を浮き彫りにしたのだ。次ページで明らかにする。