2007年4月に、1980年代から切望されていたインドネシア専用車の「グランドリヴィナ」を投入。2度目の市場参入の起爆剤となった(右から2番目が筆者)。 写真:筆者提供
かつて日産自動車はインドネシア市場でトヨタ自動車と首位を争っていたが、現在、その差は決定的なものとなっている。日産は3度目の現地生産撤退を余儀なくされた一方、トヨタは市場の覇者として君臨し続けている。なぜ両社の明暗は分かれたのか。連載『志賀見聞録 自動車産業の半世紀とミライ』の第13回【過去編7】では、現地再参入を主導した元COO、志賀俊之氏が、インドネシア市場における半世紀の盛衰を振り返りながら、そこから得た教訓を明かす。(日産自動車元COO〈最高執行責任者〉 志賀俊之)
>>第1回【過去編1】「ゴーンさんが羽田空港で逮捕されたらしいです」(2018年11月19日)から読む
>>第6回【ミライ編1】ホンダがEV戦略見直しで「2.5兆円損失」を発表した日(2026年3月12日)から読む
日産はなぜインドネシアで敗れたのか
トヨタとの明暗を分けた決断
2020年3月、日産自動車はインドネシアでの現地生産から撤退した。閉鎖されたのは、西ジャワ州プルワカルタの14年に稼働したばかりの新工場だった。
背景には経営危機があった。18年のカルロス・ゴーンの逮捕後の混乱と販売不振により、日産は20年3月期に11年ぶりの最終赤字へ転落。過剰な生産能力を削減するため、スペイン・バルセロナ工場と共にインドネシア工場の閉鎖を決めた。
その後も、イヴァン・エスピノーサ社長が主導する経営再建計画「Re:Nissan」で新たに7工場の閉鎖が打ち出された。ゴーン逮捕後に生産を終える拠点は合計9工場に上る。
皮肉なことに、この「9」という数字は、日産が11年にスタートした中期経営計画「日産パワー88」で増設を進めた工場数と一致する。つまり、当時の拡大路線で増やした工場を、今になって閉じているのである。私はその計画作りに携わった当事者だ。この計画は身の丈を超えた拡大戦略だったと言わざるを得ず、今でも申し訳ない気持ちが残っている。
ところで、このインドネシアからの生産撤退は今回が初めてではない。実はこれで3度目である。成長が続く新興国市場で、現地生産への参入と撤退を繰り返すのは極めて珍しい。
一方、トヨタ自動車は長年にわたりインドネシア市場の首位を独走してきた。ダイハツ工業を含めれば市場シェアはほぼ半分に達し、中国メーカーによるEV(電気自動車)攻勢が続く現在も、その地位は揺らいでいない。
振り返れば1970年代までは、日産はインドネシアでトヨタと激しく首位争いを繰り広げていた。
なぜ両社の運命はここまで分かれたのか。インドネシア市場での盛衰を振り返りながら、日産の海外事業が抱える課題を考えてみたい。







