シュンペーターの著書『租税国家の危機』(※注1)は、独墺同盟国側の敗色が濃くなってきた1918年に出版された。何月に出たのか分からないが、著作目録では1918年に出版された3本のうち、最初に記載されているので1918年の前半だと思われる。戦線は西部と東部、そして北部イタリアと、ドイツ、オーストリアの中心部からは離れており、情報も統制されていたであろうが、同盟国の敗北は確実視されてきた時期である。

 本書はウィーンで開催された社会学会における講演をまとめたものであり、グラーツ社会学会から発行されている。74ページの小冊子だ。

 1918年前半の状況はどうなっていたのだろうか。1917年のロシア革命を抜きには語れないので、少々長くなるがお付き合い願いたい(※注2)。

ハプスブルク帝国の終焉
とロシア革命

 西部戦線も東部戦線も膠着し、消耗戦が続いていた1916年11月11日、ハプスブルク皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が死去、68年間の治世が終わった。後を継いだのは亡き皇帝の弟、カール・ルートヴィヒ大公の孫、カール1世であり、最後のオーストリア皇帝兼ハンガリー国王となった。1914年にフランツ・フェルディナントが暗殺されたあと、皇位継承者に指名されていた。

 帝都ウィーンでは、皇帝の死によってだれもが栄光のハプスブルク帝国の終末を実感したことだろう。

 1917年に入ると、急速に厭戦気分が高まるなか、ロシアで2月(グレゴリオ暦3月)革命が起きる。ニコライⅡ世は退位し、ロシア帝国ロマノフ王朝は300年の歴史の幕を引いた。欧州大帝国の一角が崩壊し、英仏露協商国の東側が危機に陥ることになった。

 この段階ではロシアの革命勢力の主力はブルジョワジーであり、対独墺戦争は継続することになった。4月2日、アメリカがドイツに対して宣戦布告して参戦する(対オーストリア宣戦布告は12月7日)。ロシアの戦争継続が前提だったという。

 戦争に反対し、武力革命によるプロレタリア独裁を目指すボリシェヴィキ(のちの共産党)の指導者レーニンはチューリヒに亡命していた。4月9日、有名な「封印列車」でドイツを通過し、ペトログラード(現サンクトペテルブルク)に着いたのは4月16日である。この日から10月(11月)革命への動輪が動き出す。

 「封印列車」によって、ドイツ軍部がレーニンを無事にロシアへ帰還させたのである。「敵の敵は味方」だから、ドイツ軍部にとってロシアの革命勢力は、ロシア帝国を支配するツァーリズム(ロシア皇帝による専制体制)を崩壊させて東部戦線を消し、西部戦線に最大の武力を投入するための「味方」である。元来、超専制的なロシアのツァーリズムはドイツ帝国にとって最大の敵だった。

 ドイツでもオーストリアでも社会主義者の増勢が続いている。このころ、ドイツ帝国議会の第一党は社会民主党だったが、社会民主党は戦争を支持してきた。マックス・ウェーバーのような保守的な知識人も進んで軍に協力していた。

 じつに奇怪な光景が展開された。ロシアで1917年2月(3月)革命が起き、帝政は打破されて議会の民主的な動きが強まるものの、ドイツ軍部は急進的なボリシェヴィキを支援し、やがてレーニンによる10月(11月)革命に至り、ソヴィエト政権が生まれることになる。

 ドイツ、オーストリアの社会民主党は戦争を支持しているが、厭戦と帝政打倒の革命機運は高まっている。

 このころ(1917年後半)から1年間、新皇帝のもと、オーストリアは単独で協商国(英仏)と講和しようと動く。1年後、結局ドイツに従属することになるが。

 翌1918年5月、協商国側はオーストリア帝国内の被支配民族の独立闘争を支援するようになる(チェコスロヴァキアの独立は10月28日、ユーゴスラヴィアの独立は第一次大戦後すぐ)。