なぜ日本人は
いじめを見て見ぬふりなのか?
特に最近思うのだが、日本人というものは、「不満に強くて不安に弱い」。もしかしたら食べられなくなる、路頭に迷うかもしれないと思うから、なかなか外に飛び出させない。
会社で居場所がなくなって、給料も下げられて、役職定年になって邪魔だと言われても、あるいはハードワークを余儀なくされても、当然不満には思うものの、長いサラリーマン人生の中で不満に対する耐性だけは鍛えられてしまったので、耐えてしまう。
だからこそ、日本人の多くはチャレンジができないでいる。
しかも、日本人は集団の圧力に弱いという特性がある。山岸俊男氏(北海道大学名誉教授、東京大学特任教授)が著書、『心でっかちな日本人~集団主義文化という幻想』(2002、日本経済新聞社、2010、ちくま文庫)で、詳しく説明してくれている。
山岸氏が実験などにより疑問を呈したのは、日本人一人ひとりの心の中には集団主義が染みついていて、そのために日本人は集団全体の利益を重視した行動を示すという“常識”だ。山岸氏は、他の学者の研究も踏まえ、それは間違いで、日米で比べれば、むしろそうした傾向は米国人のほうに強い、つまり、米国人の方が日本人よりも集団で協力的に行動すると言っている。
1つの例として挙げているのが「いじめ」だ。最近では、いじめが昔に比べて増えてきているし、陰湿にもなっている。集団で特定の対象をいじめるという傾向も昔よりも強い。これは心の問題だといわれる。日本の子どもたちが思いやりに欠けるようになった。いじめに加担するのも、加担しないまでも見て見ぬふりをするのも利己主義になったからだ、などといわれる。
しかし、山岸氏はこれを否定する。日本人はそもそも、集団の圧力に非常に弱いから、いじめに加担もしてしまうし、あるいは見て見ぬふりをするというのである。別に他人を思いやる心を持たなくなったわけではない。では、なぜいじめを止めようとしないのか。それは、そうすることで、「自分にとってきわめて重大な結果をもたらすことがはっきりしている」からなのだ。簡単に言えば、自分もいじめられてしまうという恐怖だ。