ネットニュースの論理は
“国語の先生”と真逆である

 私たちは国語の授業で文章のいろはを教えられる際に、起承転結という概念を習った。おおよそ20世紀の新聞や雑誌の記事もそのような書き方に従っている。新聞のオピニオン的な記事であれば、まず最初に何が起こっているかが述べられ【起】、その事象の背景には何があるかを語り【承】、相反する2つの意見を並べ(両論併記)【転】、記者の包括的な意見【結】が語られる。

 しかし、現在インターネット上に散乱する記事に対し求められるのは、最初に結論を持ってくることだ。「僕はスマホなんて捨てちまうべきだと思っている」「TPPには反対である」。こうやって先に結論を明示する。次に結論に至った経緯を展開する。このような書き出しがオピニオン欄を埋め尽くしている。それは、この記者は何が言いたいのかを読者は一刻も早く知りたいからだ。つまり、1つの記事に対してかけられる時間が減っている(減らざるを得ない)からである。

 これは特にWebメディアでの記事に関して顕著だが、僕の雑感ではWebの潮流に引っ張られる形で、新聞やテレビ・雑誌など従来型のメディアの展開にもこの傾向が現れている気がする。ネット以前の旧メディアでは新書の構成が良い例だろう。新書では先に章に見出しを付けることで「ざっくり言うと」の役割を果たしているのだ。

 現在、国語の先生が授業でどのような文章指南を行っているかはわからないが、今後ひょっとしたら起承転結という概念がなくなるかもしれない。国語の先生が小学生に話しかける。「作文では、最初にざっくり何が言いたいか書きましょう。そのあと、できるだけ興味をひくようなタイトルをつけることです。このタイトルの付け方を“釣り”と呼びます」と優しく生徒を指導する。リドリー・スコットやフィリップ・K・ディックのような作家が好みそうなディストピアの話のようだが、今の風潮を考えると案外現実的かもしれない。

震災以降デマに流された私たち
これに何を学べば良いのか

 先日、僕のSNS上のタイムラインにある記事のタイトルが踊った。「STAP細胞 小保方さん、再現実験に成功 論文発表後初めて」という産経新聞の記事である。僕はその記事をSNSのタイムラインで見たとき、疑惑を抱えた科学者の起死回生に驚いたものだ。4月29日から4月30日にかけての出来事である。