住宅の確保すら難しかった時代
私事だが、妻とは8年間も恋愛をしてようやく結婚できた。しかし、大恋愛のために長い年月がかかったのではなく、愛の巣を作る場所がなかったからだ。三十数年前の当時の中国は深刻な住宅難に襲われていた。その深刻さを語りだすと、今の中国の若者からは、嘘だろうと言われてしまいそうだ。日本で出版された私の最初の本(もちろん日本語)は、『独生子女(ひとりっこ)』(河出書房新社、1992年)である。その中に、当時の住宅難に触れた個所があるので、引用したい。
「1987年6月、北京第5コンピュータ部品工場では、工場の従業員も驚くほどの計算がなされた。現在の社宅配分速度で従業員に住宅を割り当てていった場合は、20代の青年労働者は、今後73年待たないと社宅に入れない」
分譲住宅などがなく、社宅という形でしか家を確保できなかった当時の中国では、都市労働者にとって社宅が得られないということは、生活空間を持てないということを意味していた。
しかし、北京の住宅事情は当時の中国では最悪ではなかった。一番悪かったのは上海だった。たとえば、「1987年に結婚した夫婦のうち、9800組は住むところがない。結婚したけれども愛の巣を持てない家庭が累計40万世帯もあるといわれている」
結婚しようにも、愛の巣を作る場所がなかった私と妻の困窮ぶりを見て、姉妹2人の部屋を空けてくれたのが、この間、私が関西旅行に案内した従妹だった。こうして私は1981年にようやく結婚できた。結婚したのを見て、当時勤めていた上海外国語大学はあまりにも立場がなくなったので、その1年後、集団住宅の一室を割り当ててくれた。こうして私たち夫婦ははじめて子どもを産む物理的な空間を確保できた。
住むところの確保に苦しんだこうした苦い経験があったから、私は住宅の確保に執念深いと言われても仕方ないほど高い意欲をもっていた。日本に移住してから、数十万人もの新華僑のなかで、私はおそらく最初に住宅を購入した5人の中の1人だと思う。