小牧バレエ団は、小牧正英(1911-2006)が率いたカンパニーで、バレエ・リュスの流れを汲むモダンな上演で有名だった。この公演もドヴォルザークの交響曲などで踊る演出で、かなり凝ったものである。服部の自伝からプログラムやスタッフを書きだすと、下記になる。

第1部 バレエ「新世界交響曲」ドヴォルザーク作曲、指揮・朝比奈隆
第2部 シンフォニック・ジャズ「アメリカ人の東京見物」服部良一作曲・指揮
第3部 バレエ「ラプソディー・イン・ブルー」ガーシュイン作曲、指揮・服部良一

 プロデューサー・佐藤邦夫
 振付・小牧正英
 バレエ台本・竹中郁
 衣装/装置・小磯良平、吉原治良

 佐藤邦夫はおそらく宝塚で活躍していた演出家だろう。竹中郁は詩人、小磯良平と吉原治良は著名な画家である。

「ぼくにとっては二重三重の喜びがあった。念願のシンフォニック・ジャズを書き上げ、ビッグ・ステージで発表できたこと。目標の音楽家の一人であったジョージ・ガーシュインの代表作を指揮できたこと。そして、今は亡きメッテル先生門下の同輩である朝比奈隆氏と一緒に大きな仕事ができたことである」(服部良一、前掲書、1993)。

 残念ながら「アメリカ人の東京見物」は音源がなく、聴くことができなかった。ガーシュインの「パリのアメリカ人」をもじったタイトルである(朝比奈隆との関係については連載第54回参照)。

 月刊誌「音楽芸術」(1953年10月号)に、服部良一がガーシュインの小伝を書いている。

「(ガーシュインは)父のすすめで商業学校へ通ったが、全然気乗りがせず、母を説き伏せて音楽の道に志を立てたのが十六才の時である」と服部は書き出す。そう、服部とほぼ同じような経歴なのだ。

 ガーシュインはその後、楽譜屋のピアニストに職を得つつ、ブロードウエイの劇場へ作品を売り込み、評価されるようになる。1923年、服部が出雲屋少年音楽隊に入った年だが、シンフォニック・ジャズに乗り出し、ついに「ラプソディー・イン・ブルー」を書き上げる。1924年のことである。この時点でオーケストレーションにはまだ精通しておらず、ファーディ・グローフェがアレンジしたのだそうだ(現在演奏されるのは1942年管弦楽版)。

「ジャズの影響を受けた作品はラヴェルもストラヴィンスキーも書いて居るが、真にジャズの生活の中から作り上げたガーシュインの作品こそ、最も近代的なユニークなものとして異彩を放って居る。/ガーシュインには九つのシンホニーはないが彼のラプソデーや協奏曲は其れと同じ革命を二十世紀にもたらしたと云えよう」(服部良一「ジョージ・ガーシュイン」1953)。

 その後の音楽史をたどると、ジャズのリズムや和声を伝統的な管弦楽に組み合わせたシンフォニック・ジャズで、オーケストラのコンサートで取り上げられている作品はそれほど多くはない。ガーシュイン以外では、レナード・バーンスタインの「シンフォニック・ダンス」(「ウエストサイド物語」より、1960)がもっともよく知られている。シンフォニック・ジャズは、クラシックよりもミュージカルや映画音楽をより豊かにしたといえよう。