多摩田園都市のシンボル的存在、ほんの10年ほどの間に、「新興住宅地」から「高級住宅地」にまでステイタスを高めた、東急田園都市線沿線。マスコミをして「新・山の手」と呼ばせ、新しい文化圏の誕生を宣言させた街。「多摩田園都市」として総称される沿線一帯の中でも、イメージの高さを代表するのが、鷺沼、たまプラーザ駅一帯と、青葉台駅周辺である。これらの地区は沿線全体のシンボル的存在として、DINKSやニューリッチ層の憧れをかきたてる。
多摩田園都市の構想が明らかにされたのは、1953年のことである。手つかずの雑木林と田畑が広がる多摩丘陵の一画、小田急線と東横線にはさまれた一帯に良好な住宅地を建設する、というのがその骨子であった。現在、40万人を超す人口を持つこの地区の当時の人口は、1万数千人。先の長い、遠大な計画だった。
東急電鉄が開拓した街
そしてこの計画は、もう1つ極めてユニークな点を持っていた。公共機関がリードするのではなく、民間主導(東急)によって計画され、実施に移されていくというレールが敷かれていたのである。
音頭をとったのは当時の東急の総帥、五島慶太(故人)である。イギリス・ロンドンの衛星都市、レッチワースやウェリン・ガーデンシティといった田園都市の思想に共鳴していた五島は、東京都心から15キロ~35キロ圏に広がるこの土地に、その再現を夢見たのである。
このときから現在に至るまで、多摩田園都市は東急と密接な関係にあり、相互が補完するといった状況にある。
東急が特に大きな役割を占めたのは、一帯の区画整理を一括代行して行なったこと、そして後に西は小田急線中央林間駅、東は新玉川線を経由して営団半蔵門線と相互乗り入れする鉄道の建設に着手したことである。開発と鉄道建設を同時進行的に行なうこの方法は、鉄道会社の開発手段として、他の先駆けになった。
爆発的人気と地価高騰現在、鷺沼、たまプラーザ、そして青葉台といえば、おいそれとは手が出ない場所である。しかしこの短い歴史の内に第1級のステイタスを得た街は、最初は静かな、そして堅実なスタートを切っている。
住宅の供給が本格的に始まったのは、1960年後半のことである。1966年に田園都市線溝の口~長津田間が開通し、とりあえずのアクセスが確保され、街としての機能が整う前提ができたのである。
そしてこの年、日本を代表する建築家・菊竹清訓を中心としてつくられた、多摩田園都市全体のマスタープランが発表される。このプランは従来になく大胆な都市計画の理想を追求したものであった。プランの内容は机上のものに終わらず、すぐ実行に移された。
“ビレッジ”と命名されたこのプランは、まず年のコア(核)として「やや高級な住宅」を建設、これを住宅地の拠点として、周辺の開発を促していくものである。