偏見があるからこそ
AV女優には価値がある

開沼 お話をうかがっていると、AV女優を取り巻く環境がとても「現代らしさ」を持っているなと思う一方で、いままで語られてこなかった何かに接近しつつあるなと感じています。たとえば、労働・雇用の問題としてAV女優のことを見ていくと、いわゆるワーキング・プア問題のように、人が人として扱われなかったり、金額以上の仕事を強引にやらされていったり、やりがいだけ提示されるけどカネはまったく見合わないものであったり、そうした話が現代らしいさまざまな事例のなかで語られることが多かった。

 しかし、AV女優のことは、それとは対極的な部分があるのかなという感じがします。もちろん、金銭的な魅力もあるかもしれませんが、それ以外の魅力、働くための気概をどのようにつくり、それを保つためのマッチングをしていくかということは、他の仕事の現場にも応用できそうですね。

鈴木 できる部分はあると思います。私が想像できるのは女性の仕事ですが、男の仕事の場合でも、いろいろな価値を提示して、この価値だったら自分にもあると見せることで現状の最高のパフォーマンスを引き出す方法や、企業の人事でも使えるように思いますね。

 AV女優で単体から企画に移るときに、ある程度、気の持ちようが変わることは本のなかでも書きました。ある一つの価値、たとえば若さという価値が絶対的なものだとすると、それがなくなっていくことで自分の価値が減ったように思い、やる気もなくなりますよね。でも、新たな価値を見出すことによって、そういうやる気の減退のようなものは排除することもできる。「取り柄は『若さ』『可愛さ』だけの単体とは違って、私には経験や技術がある」と、女の子を順位づけるヒエラルキーを自分のなかで変化させていくための状況づくりをすることは、人が感じよく働くためにどこの職場でも必要だと思います。

 たとえば、私がいま勤めている会社でも、本人が望んだか否かに関わらずわかりやすい出世街道から外れてしまった人、会社としては傍流の部署にいる人もいます。でも、そちら側でも大きな不満はなく、むしろ主流にいる人たちを小馬鹿にして楽しんでいるのを見ると、遠からずな感じだと思います。それはきっと、どこの会社でもありますよね。

開沼 博(かいぬま・ひろし)
社会学者、福島大学うつくしまふくしま未来支援センター特任研究員。1984年、福島県いわき市生まれ。東京大学文学部卒。同大学院学際情報学府修士課程修了。現在、同博士課程在籍。専攻は社会学。学術誌のほか、「文藝春秋」「AERA」などの媒体にルポルタージュ・評論・書評などを執筆。読売新聞読書委員(2013年~)。
主な著書に、『漂白される社会』(ダイヤモンド社)、『フクシマの正義「日本の変わらなさ」との闘い』(幻冬舎)、『「フクシマ」論 原子力ムラはなぜ生まれたのか』(青土社)など。
第65回毎日出版文化賞人文・社会部門、第32回エネルギーフォーラム賞特別賞。

開沼 AVという仕事に対するスティグマ(負の烙印)をなくそうと、活動を続ける人もいますよね。時間が限られているので、その詳細をここでは論じるのは控えますが、社会からの強い嫌悪感、好奇の目はどう頑張ってもなくなりづらいものだとも思います。

 たとえば、LGBT(Lesbian, Gay, Bisexual, Transgender)の問題を見れば、自分たちの社会的地位の向上、理解の促進を進める活動のなかで、ある程度の権利が認められてきたり、制度が改まってきたりという進歩があります。一方で、どこまでも変わらないラインもある。たとえば、欧米でレイシズムと同じように反LGBTの活動―それは宗教的な思想を背景としていたりもするので、日本からは理解し難い部分もあるんですが―が存在したりもする。

 しかし、いずれにせよ、現状理解が進むことで、紋切り型の意見は少しずつ解消していくのも確かでしょう。たとえば、AV女優に向けられるステレオタイプについて言うならば、「誰でもできて、楽に金を稼いでいる怠惰な人間がやる仕事だ」という見方は解消されていくと思いますが、鈴木さんは、今後どう理解されるべきだと考えていますか。

鈴木 私の考えは偏っていて、スティグマが過剰にはがれてしまうと、私たちの身体の価値も下がってしまうと思っているんですよ。

開沼 それはおもしろい。

鈴木 ちょうど話題になっているので例として言いますが、たとえば女性器を「猥褻ではない」と言ってしまえば、極端に言うと服のモデルとAV女優のギャラが一緒になってしまいます。私たちは、自分の身体が猥褻であり、それを見せることでスティグマや偏見というある程度のハードルがあり、かつそこに付加価値があるからこそ、それも顔や手を見せる以上の価値があるからこそ、ブランド品を買ったりできるくらいの高い商品価値を生むわけです。

 女子高生の時から、それは考えていました。パンツを売ることに対する社会的な偏見と、私たちの身体が猥褻物であるという事実があるからこそ、原価100円のパンツが8000円で売れると強く思って生きてきたんですよ。裸になることにまったく抵抗を覚えない社会があったとして、AV女優に対して一部の人たちからさえも蔑みの目で見られなくなったら、独自に存在するセクシーさや、ある程度後ろ指を指されるからこそ生まれている文化や金銭的な価値が消えてしまう。

 もちろん、私は自分や自分の友だちが世間から後ろ指を刺されるのは辛いんだけれども、そういうことがあるからこそ生まれる何かについては、自覚的でなくてはならないと思うんです。私はその業界を愛していたし、魅力的なものだと思っていたから、偏見を完全になくそうという声に対しては、「そんなことを言われても困る……」と考えてしまいます。

 また少し違った話ですが、AV女優は不幸でダメな人間というイメージを払拭しようとする人もいます。ただし、不幸だったり、ダメだったり、男性にとってわかりやすいストーリーが、商品価値の一部になっていることもあるわけですよ。男の人がマスターベーション的に書いているAV女優のインタビューなどでは、いやに暗い受け答えもありますよね。一部のAV女優やその周辺の論客たちのなかには怒る人もいます。「私はああいうのが嫌い」「変なイメージを植えつけている」と。

 ただ、AV女優にあれを望む人がいる、その構造に則っていたほうが私たちの利益になることもあるわけです。別に実際に不幸でもダメ人間でもなかったとしても、そういう男の欲望はうまく使って、自分たちの価値が下がらないようにしたいと私は思いますね。

開沼 なるほど。暴力団員など暴力を背景に仕事をしている人も、会えばものすごい物腰柔らかい場合が多い。私は信頼できて優しい人間だよ、と。逆に普段から感じが悪い、虚勢を張っている人の周りに人は寄り付かないわけです。ならば、ただのいい人なのかというと、もちろんそんなことはない。ところどころに「いつでも暴力発動しちゃうよ」という前提を感じさせる何かも見せつけてくる。仮にそれが幻想であるとしても、やはり笑顔の裏に暴力が控えています。

 その二律背反を持っているからこそ、自分自身の価値が高まっているという状況にとても似ている。それを意図してできることは、月並みな言い方をすれば“頭のいい”ことですよね。それはAV女優の仕事をするうえで重要なことですか。

鈴木 頭がいいという言葉としては浮かびませんでしたが、それを感覚的にわかる嗅覚があるほうが、変なところでは足をすくわれないと思いますね。