事件や事故の取材・報道を「発生モノ」と呼ぶ。新聞・テレビとも、そうした取材を担当するのは主に社会部の記者たちだ。
ひとたび「発生」すれば、24時間体制の取材を余儀なくされることもある。とくに事件取材では、解決が長引くと、警察の捜査と同じように何週間、場合によっては何ヵ月間も現場に張り付くこともある。オウム真理教による一連のテロ事件、和歌山の毒入りカレー事件などがその例だ。それゆえに、現場で取材に当たる記者たちの苦労には、同業者ながら、心から同情に値するものがある。
千葉・東金で起きた女児死体遺棄事件は、発生から2ヵ月を過ぎた12月6日、容疑者の逮捕で結末を迎えた。相当の時間が必要だったことで、千葉県警捜査本部も逮捕に必要な証拠集めに苦労していたことが窺える。それでも、わずかな物証と証拠を積み上げて、逮捕に漕ぎ着けた県警の努力には頭の下がる思いだ。
犯罪自体は断じて許されるものではない。容疑者逮捕は、殺された園児の遺族にとって、せめてもの救いになるかもしれない。そうした意味でも、事件が起こった以上、容疑者逮捕は最良の結末だ。
にもかかわらず、容疑者の逮捕直後から、筆者は、言い知れぬ違和感に襲われている。新聞・テレビのニュースを追いながら、どうしても、今回の報道にはなじめないからだ。その原因は、容疑者の「履歴」にある。
端的に言えば、容疑者の実名・顔写真報道の問題である。本事件の報道に関しては、記者クラブの横並び意識がもたらした弊害が如実に現れたとみている。
警察発表によれば、容疑者は特別支援学校に通っていた。軽度の知的障害を抱え、その病歴からも、単純に責任能力が問えるかどうか疑問の余地は残る。
にもかかわらず、すべての記者クラブメディアは実名と顔写真で容疑者を報じた。