今回のコラボは、コラボの成功方程式で言えば、大きな効果が期待できる組み合わせであり、10月のオープンからここまでを見る限り、想定以上のPR効果になっているようです。しかし、今回のコラボが更に大きなインパクトを生んだ理由は、神楽坂という土地の特殊性にあったのではないかと私は考えています。神楽坂だからここまでのものを作れたとも言えますが、これが青山や原宿のような立地ではないところに大きな価値があるのです。では、なぜそう言えるのでしょうか。

江戸時代から栄えた
神楽坂という街の特性

 神楽坂は昔、坂下が武家町で、坂上が寺社町でした。また、表通りに面していた大きなお屋敷は旗本屋敷が占めていました。その周りには仕えていた御家人が住んでおり、更にその周りに庶民が住む、というように官・民のバランスがとれていた街でした。

神楽坂の裏路地にはたくさんの飲食店がある

 江戸時代、大老の酒井忠勝が坂上の矢来町に屋敷を構えた頃に、坂下には江戸城の外濠、牛込見附が完成し、ここをつなぐ約1kmの大老登城道が造られました。これが現在の神楽坂通りです。その後、牛込から和泉橋まで神田川が開通し、軽子坂付近は多くの人と物資が行き交う場所へと発展していきます。

 江戸中期になると毘沙門天や出世稲荷の縁日、赤城神社および行元寺前の岡場所の賑わいも加わって、神楽坂という街のイメージが作られていきました。

 明治になると、商店街や住宅街として急速に発展。百貨店は3軒も出店し、縁日は連日連夜大盛況で、「山の手銀座」とも呼ばれ、すれ違うのも大変なほど人の賑わいがあったそうです。今の原宿・竹下通りのようなものでしょうか。また、この時代の神楽坂は尾崎紅葉や坪内逍遥らの活躍の舞台ともなりました。

 昭和の高度成長期には、多くの政治家や経済人が神楽坂の料亭を利用し、花柳界が盛んになり、文人たちの住む街としても知られるようになりました。こうして神楽坂は、商業と文化、遊びと知の入り混じる独特の街となっていったのです。

 つまり神楽坂は、「大人がいつもとは違う楽しみを見出せる特別な街」として発展し、そこに文化人が集まり、出版社があることから知的な街としての顔を持っていたと言えます。