この頃、鵠沼の地に魅せられてこの地に住みついた伊東将行という人物がいる。伊東は鵠沼を別荘地として開発することに熱中し、道路の建設、松の植樹なども行なった。こうした努力の後、名士たちはこぞって別荘を構えるようになった。もともと鵠沼は、湘南の温暖な気候に加えて江ノ島も望める風光明媚な場所である。伊東の整備によって「白砂青松」という当時のニーズに合った別荘地にもなり、それが上流人士の心をとらえたのである。

江ノ電
[江ノ電]
湘南のシンボルとして、藤沢から鎌倉までを結ぶ。

 その後、明治35年には現在の江ノ電の藤沢~片瀬間が開通し、足の便も良くなる。大正10年ごろには25万坪以上に広がっていた別荘地帯は、昭和4年の小田急江ノ島線の開通によって、西の辻堂方面にさらに広がった。

 こうして別荘地として完成した鵠沼は交通の進歩とともに東京へのアクセスも容易になった湘南の中で、高級住宅地に徐々に変化していった。観光地的な要素は大資本が投資されて「日本のマイアミ」を目指した片瀬・江ノ島方面に集中し、鵠沼は住宅の色あいが強まったのである。

 現在、鵠沼の海岸には、冬でもサーファーが集まっており、一種のにぎわいを見せている。ただし、その数はサーフィンのメッカ辻堂に比べて多くもなく、静かさは守られている。何よりの証拠に、若者たちには若干敷居の高いであろうレストラン「三笠会館」も、ファミリーレストラン全盛の海岸通の中で、この場所で営業を続けている。

 住民を結びつける“学校”の存在戦後の一時期に移り変わりが激しかったとはいえ、この地に古くから住む人間は多い。

 戦後からの住人も、いわゆる「成金」的な人ではないようだ。復興長者の活躍の場・東京からは、彼らにとって遠く感じられたのかもしれない。イメージ的にも都心の住宅地と比べ、派手さとは対極にある。やはり鵠沼は明治の文豪・徳富蘆花が記したように『蝉の音すら此処には涼しく聞こへる…(「思い出の記」より)』といったのどかさを本分としているのだ。