また、オスカー・ピーターソンは、余人をもっては到達し得ない最高の地点にジャズを導いた功労者です。発表したアルバムは優に200枚を超えます。多作は天才の証です。

 そんな優等生の彼にも、印象深いエピソードがあります。

父と子の物語

 オスカー・ピーターソンの父ダニエル・ピーターソンは、英国領西インド諸島出身。音楽に秀でた才能を示しましたが、島での生活に見切りをつけ、カナダに移住します。ダニエルは、カナダ・パシフィック鉄道の駅舎で荷物を運ぶポーターとしての職を得て、慎ましいながら家族を養っていきます。子宝に恵まれ、5人の子どもを授かり、オスカーは第4子でした。

 決して裕福ではありませんでしたが、父ダニエルの方針で家には音楽が溢れていました。そんな環境で育ったオスカーが最初に得た楽器はトランペット。瞬く間に上達したといいます。しかし、オスカー少年7歳のときに結核を患い、息を強く吹くことが難しくなってしまいます。そこで、トランペットからピアノに変更するわけです。運命の綾かもしれません。

 そして父がピアノの手ほどきをしますが、すぐに父の手に負えなくなって正式にピアノ教育を授けます。15歳の頃には、モントリオール市のピアノコンテストで優勝。そこで少年オーケストラに入ります。が、オスカー少年は唯一の黒人でした。

 今でこそ、カナダは最も人種的偏見が少なく、それぞれの才能を開花させている元気のいい国ですが、1940年代には人種差別がここそこにありました。言うに言われぬ苦労もあったといいます。

 ちょうどその頃、オスカー少年は父が買ってきたアート・テイタムのSP盤を聴いて、ジャズに目覚めます。クラシックピアノで鍛えた技量を武器に、瞬く間にジャズピアノの奥義を独学で身につけます。トロントのクラブで演奏するようになり、高校生にしては相当な額を稼ぎ始めます。そこで17歳のある日、オスカー少年は「高校を中退してジャズの世界に入りたい」と言い出します。しかし、父はオスカーに対し、「ジャズ演奏家になるために高校を中退することは絶対に許さない」と反対。さらに「セカンドベストでは意味がない。ベストの中のベスト、最高峰になる覚悟がないなら、何をやっても無駄だ」と語るのです。

 この一件は、オスカー少年の心に響きました。父親が人生の岐路に立つ思春期の息子にしてあげられる最高のことは、人生の要諦を本気で語ることなのかもしれません。

 そして、オスカー・ピーターソンの本気の鍛錬が始まります。