中国との外交に携わった37年間、中国が「文化大革命」の混乱を抜けて世界第2位の経済大国へ躍り出るまでの変遷をつぶさに見つめてきた人物がいる。瀬野清水(せの・きよみ)さん(66歳)だ。定年を迎え外務省を離れたのちも、日中の民間交流のつなぎ役として往復を続けている。いわば半生を中国とともに歩んだ瀬野さんは、中国滞在中、普段着に着替えて街の雑踏に紛れ込み、ときに市井の庶民とも言葉を交わした。自身が「どぶ板外交」と称しているその瀬野さんが中国の今と日中関係を是々非々で語った。

――中国への思いには「歴史」が存在するようですね。

昨年10月の北京APECで握手を交わす日中両首脳(写真提供:首相官邸)

 私は何故か子どものころから中国に憧れていました。実際に中国に行きたいと焦がれるように思ったのは、高校の図書館で見た一冊のグラフ雑誌がきっかけでした。中国大陸における日本軍の中国人に対する陰惨な写真は、皇軍のイメージを損ないかねないなどの理由で、戦中、戦後の一時期「不許可」の印と共に封印されていたものです。放課後、誰もいない図書館で、モノクロの写真を見ながら、日本軍は中国大陸で一体何をしていたのか、突如としてやってきた日本軍を中国人はどういう思いで見たのか、そんなことを考えました。いつか、中国語を学んで中国に行く、そんな運命を当時の私は薄々感じ取っていました。

――その瀬野さんが中国へ初めて渡航したのはいつですか。

 私が初めて中国に足を踏み入れたのは外務省の語学研修生として赴任した1976年のことでした。この年は毛沢東、周恩来、朱徳といった革命第一世代が前後して世を去り、唐山大地震が発生し、「4人組」が捕まり「文化大革命」の余燼くすぶる中で華国鋒が共産党主席に就任するといった、激動の一年でした。

瀬野清水(せの・きよみ)
1949年生まれ。75年外務省入省。76年から香港中文大学、北京語言学院、遼寧大学で中国語を研修。通算25年を北京、上海、広州、香港などで勤務、2012年重慶総領事を最後に退職。現在、Marching J財団事務局長のほか、日中協会諮問委員、桜美林大学北東アジア総合研究所客員研究員なども務めている。共著に、「激動するアジアを往く」、「108人のそれでも私たちが中国に住む理由」、「日中対立を超える『発信力』」などがある。

 1年間の語学研修を終えて、1977年から上海総領事館で勤務を始めました。その頃の上海市政府の人たちの中には「数十年後に上海はこうなる」と“白髪三千丈式”の夢物語を語る人が現れ、現実との乖離に私たちは相当“眉唾”でした。 たとえば、総領事館は外灘の和平飯店から匯海中路の古い洋館に越した直後、当局から「数十年後、虹橋飛行場に近い虹橋区に領事館区を作るので、日本も移転を検討してほしい」と告げられたことがあります。現在の総領事館がある虹橋区万山路のあたりは、当時「虹橋人民公社」という看板を掲げる事務所棟のほかは一面の農村地帯。こんな田んぼのド真ん中に?と誰もが首をかしげたものです。

 浦東新区も同様です。当時は倉庫や造船所の跡地のほかは一面の農村風景。沼地もありました。進出のための調査を進める日本企業が「工場を建てても沈んでしまうのではないか」と心配するぐらいの柔らかい地盤でした。

 しかし、それから20年後の1997年、二度目の駐在で上海の大変貌を目の当たりにしました。「言ったことはやり遂げるのが中国だ」と実感、青写真を描いたらやり遂げる、そのすごさに感服したものです。