また、「誰でもよいから相談してください。気持ちを受け止めてくれる人はあなたの周りに必ずいる」というメッセージは、加害者の行為を禁止しなければならないという問題を、被害者の心の問題にすり替えるので有害だという。

 また、相談したからといって誰もがそれを受け止めてくれるわけではない。岩手県で自殺した男子生徒のノートに、「明日からの研修楽しみましょうね」と書いた担任がいい例かもしれないが、勇気を出して相談したときに、それが裏切られるショックは大きい。また、相談したことが加害者に中途半端なかたちで漏れ、余計にいじめられるというケースも少なくない。

「心を強くするの」「いじめる子こそ中途半端な連中」といった言い方についても内藤氏は疑問を呈している。これも、いじめが起こる構造自体に目を向けず、「心」の問題にすり替えているからだ。

 内藤氏は『いじめの構造 なぜ人は怪物になるのか』(講談社)の中で、いじめが起こる根本的な構造について指摘している。学校という閉鎖空間の中に入れられ、集団生活を強いられると、その中には特有の「仲間うちの秩序」が生まれる。子どもたちにとってはその閉鎖的な群れの秩序こそが、世の中の常識や良識、法律よりも力を持つものになってしまうという構造だ。その秩序とは、自分たちの「ノリ」だけを神聖化し、少しでも馴染まない異質なものは排除して構わないというものだ。

 いじめ加害者たちは、叱られても反省を見せず、被害者が自殺した後でさえ平然とした態度をとることがあるという。内藤氏は子どもたちが平然としていられる理由を、「社会的秩序よりも自分たちのノリの方が大事だから」と説明する。構造に組み込まれれば、誰もが「怪物」になる可能性がある。

教育制度の解体は過度な主張?
感動エピソードに意味はあるのか

 内藤氏は多くの著書の中で、学校の構造自体の問題点や、警察が介入できない「聖域」となっていることを指摘し、狭い世界に閉じこめて極端な集団生活をさせる学校制度そのものを考え直すべきと提案してきた。

 すぐにできる具体的改善策としては、(1)加害者が生徒であれ教員であれ、学校の頭越しに警察を呼ぶのをあたりまえにすることと、(2)数十人を朝から夕方まで一つの教室に閉じこめる学級制度を廃止することを提案している。しかし、マスコミからは「受け入れられない非現実的な主張」として避けられることもあったという。

 そもそも、金銭トラブルであれば金銭トラブルの専門家、ビジネストラブルであればその専門家のコメントこそ求められる。なぜいじめに関する問題だけ、「有名人なら誰でもいい」とでもいうかのように、手あたり次第コメントを取るのか。おそらく、「多くの人が子ども時代にいじめ問題に直面していたから」であり、それだけいじめ問題が誰にとっても身近なことだからなのだろうが、だからといって誰もが適切なメッセージを発することができるわけではない。

 内藤氏は、マスコミが行う報道のおかしさを、こんな寓話にたとえている。


 ある国では、35歳から40歳までの人を強制的に収容所の監禁部屋に閉じ込めて理想的な共同生活をさせることにした。その中で、人々は、狭い檻に閉じ込められた鼠のように、互いに痛めつけ合うようになった。人々を監禁部屋に閉じ込めること自体不当なことであり、収容所から解放するのが基本である。