>>(上)より続く

 修さんは思わず、声を荒らげてしまったそうですが、修さんが怒りの感情を露にするのも無理はありませんでした。修さんは「長女の夫」として、かろうじて義父の納棺、通夜、葬儀、四十九日など最低限の法要には参加することが許されたのですが、肝心要の「遺産協議」の場に呼ばれることはなく、すでに義父の逝去から10ヵ月が経過しようとしていました。もちろん、修さんは「長女の夫」として遺産協議の場で意見を言うつもりでいました。

 何しろ修さんは「この日」のために耐えがたきを絶え、忍びがたきを忍んできたのです。

「どうなっているんだ?」修さんが妻に尋ねても、妻は「そのうち」「時期を見て」「みんなの都合もあるから」と煮え切らない返事を繰り返していたのですが、修さんは業を煮やして義妹(次女の高島文子)に連絡を取り、直接会いに行ったのです。

「これを見てください。これがお父さんの遺志ですよ。何か文句はありますか?」

 そこで妹が修さんに対して突きつけてきたのは戸籍謄本のコピーでした。修さんが謄本をよくよく見ると、すでに義父の名前には×がついており、義父の近くに妻、次女の名前が書かれていたのですが、どこをどう見ても修さんの名前は見当たらなかったのです。左から右へ、上から下へ、修さんは自分の目を何往復させてもダメでした。

「そんなはずはない!」

 修さんは当然のように自分の名前が「養子」として書かれているものだと思い込んでいました。どうやら義父は婿である修さんと養子縁組をしていなかったのです。

信用していた義父と口約束
それを証明するものがなく…

 さらに残酷な現実が修さんに追い討ちをかけてきました。修さんが30年間、「生きがい」にしてきた遺産協議はすでに行われており、遺産の名義変更など各種の手続は完了していたのです。具体的には母が2分の1、妻が4分の1、義妹が4分の1という具合で財産を割り振ったそうで、そこに修さんの名前はありませんでした。

「僕だって高島家の人間ですよ。もし僕がお父さんの養子ではないとしても、財産をもらう権利はあるはず!今まで散々、尽くしてきたじゃないですか?こんな非礼なやり方、通用すると思っているんですか?」