社会保障政策についても、財政的・人的にカバーできないところは、最終的に「家族」であり「女性」が最終的に面倒を見るべきだと考えている。そのために、祖父母がいて、両親がいて、子どもがいる「標準的な日本の家族」がある「美しい日本を取り戻す」ことが重要だということになる。換言すると、安倍政権が目指すのは「自助」に基づく社会だ。

保守的な「自助」に対して
「共助」の社会構築の提案を

 しかし、「中流」の人たちは「自助」だけで日本社会が将来持続できないと理解している。「標準的な日本の家族」の復活など、夢のまた夢なのだ。安倍政権が「地方創生」を提唱しようと、地方から都会への人口移動は止まらない。都会に移り、サラリーマンとなって結婚し、共働きで1人か2人の子どもを持つ。田舎には年老いた両親が残っている。田舎に帰るのは年に1、2度だ。むしろこれが、現在の「日本の標準的な家族」だ。筆者もその中に含まれるが、正直、田舎の両親と「三世代同居」しろといわれても無理だ。我々が望むのは「共助」である。社会として親の世代の面倒を見るという仕組みを切実に必要としているのだ。

 民主党・維新の党が攻めるべきは、安倍政権が「自助」の論理によって逃げている部分だ。「中流」の人たちが切実に望む「共助」に基づく「社会保障政策」を打ち立てることだ。例えば、かつて民主党政権期の「子ども手当」は、意外なほど若い子育て世代の支持があったことを思い出すべきだ。子ども手当が主に「財源問題」から批判を受け、徹底を繰り返していた時、TVニュースの街角インタビューで、若い子育て世代の「子ども手当がなくなるのは残念です。期待していたのに」という声が多かったことを覚えている。保守的な「自助」ではなく、社会による「共助」を求める声が存在しているのだ。

 民主党政権が、子ども手当に対する「財源問題」を、「共助」の観点から反論できなかったことが残念だった。「子ども手当」は、欧州の社会民主主義的政策としては、一般的なものだ。ただし、それを実行するには「高福祉、高負担」に対する社会的コンセンサスの構築が必要だった。子どもの教育のような重要なことは社会で行うという「共助」の考え方の必要性を説くととともに、その実現には高い税負担が必要であることを、逃げずに国民に説明せねばならなかった。ところが、「無駄な公共事業などを削減すれば財源は確保できる」というバラ色の大衆迎合に走り、増税は必要ないと言い切ったために、それができなかった時、「財源問題」で一方的に批判されてしまった。

 民主党・維新の党が安倍政権との対立軸にすべきことは、もはや「標準的な家庭の復活」による「自助」の社会の再構築はありえないということだ。「共助」の社会を構築することの必要性を訴えることだ。そのためには10%を超える消費増税が必要であることからも、逃げるべきではない。社会保障のための税収増を事実上先送りすることになる「軽減税率」にも、当然反対の立場をとることになる。これらを、親の世代の介護が心配になる人も多い「中流」の人たちに、逃げることなく正面から問うことだ。