「熟読の呪縛」の発端は、おそらく学校教育にあります。
「作者のいいたいことを正しく読みとる」とか「主人公の気持ちを選択肢から選ぶ」といった教育を受けているうちに、「本を読むという行為は、著者の意図を一字一句、正しく理解し、それを頭の中に写しとることである」という不文律を植えつけられてしまっているのです。
なにかのきっかけでその呪縛が外れた人(または最初から外れている人)は、もっと不真面目に、自分に都合のいいように本を読んでいます。
一方、熟読の呪縛にとらわれている人は、まるで教師の解説や板書を逐一ノートに書き写す生徒のように、本の内容をせっせと頭にコピーしようとしている。
だけど、その努力って報われるのでしょうか?
読書について、重たく考えすぎじゃないでしょうか?
ましてや、いまの時代はメディアのあり方自体が激変し、僕らの「読み方」「聴き方」そのものも変化しています。ネットニュースやSNSの「いい加減な読み方」のほうに慣れてきてしまっているのに、本の読み方だけは以前のかたちを貫くというのは、ちょっと難しいんじゃないでしょうか?
「本に対して真面目な人ほど、これからますます読書できなくなっていくのではないか」とちょっと気になっています。