本能寺の変から、明智光秀との戦いまで

 1582年、信長に運命の時が訪れます。配下の武将である明智光秀により、本能寺で討たれて急死したのです。秀吉の毛利遠征の支援軍として命を受けた光秀は、その進軍途中で京都の本能寺に進路を変更。わずか100名程度の家臣しかいない信長を、1万人以上の軍勢で囲み、炎に包まれた本能寺で信長はその野望と共に世を去ります。

 光秀は1528年に生まれ、一度は父の城が落ちたことで浪人となり、諸国を流浪したのち、朝倉氏、足利義昭に仕えて、織田四天王の1人に数えられるほどの活躍をしています(織田四天王は、柴田勝家、丹羽長秀、滝川一益、明智光秀の4人)。

 信長が横死したのち、光秀は一番早く攻め入ってくるのは北陸にいた柴田勝家だと考えていました。そのため、最初は重臣を柴田軍の備えに当てたほどでした。

 しかし勝家は、敵側の上杉の城を落とした直後で動けず、関東方面軍の指揮をしていた滝川一益は、信長の死を知った北条軍の急襲に応戦して敗北するなど、本能寺の変の直後には、動くに動けない状態でした。

 一方の秀吉は、6月2日の本能寺の変を翌3日の夕方に知り、毛利側に情報が漏れないよう封鎖体制を敷きながら、和平工作を加速させます。4日の正午過ぎには、敵方の清水宗治が切腹して休戦が決定。6日には敵軍の撤退を確認して、秀吉の軍勢も京都へ向かい始めます。そのとき、ごく一部の兵を高松城に残すほかは、秀吉は全軍を率いて撤退します。

 光秀は、謀略に優れた武将ではありましたが、調略すなわち敵を味方に引き込む「人たらし」では、秀吉に遥かに及びませんでした。光秀が京都周辺で右往左往しているあいだに、秀吉は京都に向かう途中で、早くも敵側と思われた人物を味方に引き入れています。光秀は、自分に味方してくれるはずと期待した者たちが、中立を守って援軍にならなかったり、逆に敵に回る苦境に直面させられます。

(光秀が)「娘の玉(ガラシャ)を嫁がせていた細川忠興とその父藤孝は味方してこなかったし、筒井順慶も味方してこなかった。中川清秀・高山右近は逆に秀吉方の先鋒となっているのである」(書籍『秀吉の天下統一戦争』より)

 13日には京都付近の山崎で秀吉、光秀の両軍が対峙。数に勝る秀吉軍が勝ち、光秀は敗走する途中で農民の繰り出した竹やりで殺されました。

ネットワーキング能力の有無が、勝者を決めた

 秀吉の調略の力は、現代でいえばネットワーキング能力と置き換えることができるでしょう。戦うよりも、味方をどれだけ増やすか、特に全体の趨勢を左右する重要なカギを握る人物や会社を、どうすれば自陣営に引き込むことができるかです。

 秀吉は一貫して、調略の力で敵を引き込み、決戦の前に重要拠点の敵将を味方に変えて勝ちました。この秀吉の戦略・戦術が最大限発揮されたのが、書籍『戦略は歴史から学べ』で紹介した、徳川家康との小牧・長久手の戦いです。

 時代の転換点では、勝てる要素ががらりと変わることが多いものです。武力が戦国の時代の出世を決めた時代から、秀吉が創り上げたネットワーキング能力が勝者を決める時代が到来したのです。

 日本企業もかつては「技術が会社を繁栄させる」と言われた時代がありました。ところが、現在では技術を新規事業や高い付加価値に結びつける発想力がない企業は、生き残ることさえ難しい新たな時代を迎えています。

 秀吉の出現により、純粋な武力では勝利を手に出来なくなったように、技術だけでは技術を付加価値に変える力を持つ者に、太刀打ちできなくなっているのです。

 秀吉は、主君の信長にその才能を見出されましたが、秀吉の才能は戦国の風景を様変わりさせました。一社単独ですべてに勝ることができない規模の競争になり、ネットワーキング能力こそが勝者を決める、新たな時代を生み出したのです。