他に、非都市的設備として残すかどうか迷ったものとして、ぽっとん便所があります。
わたしはそのままでいいかなと思っていたのですが、なんと実家の親から「トイレが水洗でない家には行きたくないわ」と言われてしまったのです。
そんなぁ、たかだかトイレでなによと言い返したものの、そこだけは頑として譲りません。
できれば親たちもたまには招き、野山で孫たちと遊んでもらいたいという気持ちもあったので、仕方なしに合併浄化槽をつくり、水洗便所に変えました。
……以前、親の世代が小さいころは汲み取りだったんだなあと、感慨深く思ったあの気持ちのやり場はどうしましょうね。わたしよりよほど潔癖です。
もうひとつ、手を加えたところ。
住みはじめて2年ほどたったころに地元の腕利き大工の村上さんにつくってもらった、ちょっと大きなデッキです。家の縁側からブリッジを伸ばし、もっとも眺望のよい西側斜面地に張り出すようにつくったこのデッキは、唯一の増築部分です。
そこにはかつて、マテバシイの木が大きく傾いて張り出していて、上の方の枝に座面のような板が打ちつけてありました。昔、この木に登り、座って眺めを楽しんでいた人がいたのでしょう。
その、伸びすぎて重くなった枝を切り落として木の傾きを抑え、かわりにデッキをつくりました。
小さい座卓を囲んで家族が食事できるくらいの広さがあり、日暮れどき、野良仕事を終えてぼんやりと夕日に溶ける山の端を眺めるのが、わたしたちの至福の時間となっています。昔の人もここで同じ風景を見ていたんだろうな、と思いながら。
この昔からある、とりたてて立派でもない古い農家での暮らしは、何かとデザインコンシャスな都市でのライフスタイルとは正反対の居心地を核としています。
体にとっては、野良仕事で汗をかいて帰ってきたときに、日差しを遮り、風を通し、ごろんと転がれるだけでありがたい。心にとっては、灰汁(あく)を落とすザルのように素朴な存在であることこそありがたい。ひとたび外に出れば、やることがたくさんある。虫もおばけも一緒に寝転んで、ふぅっと安らぐ器であればいいのです。
(第16回に続く)