無言の帰り道、わたしも自分を責め続けました。
三ちゃんはどれだけ恐怖しただろう。家で待っているきーちゃんだってどれだけ怖かっただろう。事故の起こる可能性のある状況で、飼うことなんてはじめから考えなかった方がよかったかもしれない。
でもあのとき、卵を助けなかったら、この子たちは生まれてこなかった、あんなにかわいい姿で……それでも、こんなことがあるなら生まれない方がよかったのかもしれない……自分たちはなぜ、卵を孵化しようなんて思っちゃったんだろう。
帰ってきて、残されたきーちゃんの様子を見に和室に入ると、ばらばらと羽の落ちた部屋で、とととと、ときーちゃんの歩く音がしました。いよいよ臆病になって姿は見せない
けれど、じっとしていると、とととと、とまた、歩く音がする。
生きてるなあ、きーちゃん、生きてるなあ、とまた、涙が止まらなくなりました。
その年の10月、成鳥になったきーちゃんは、無事に南房総の青空に飛び立ちました。
苦労して育ててきた余韻はまったくなく、箱を開けると竹藪に向かって一直線に飛び去ってしまった、野生児きーちゃん。過去など振り返らぬキジの子は、頭かくして尻もちゃんとかくして、今もたくましく生きているでしょうか。
畑でキジを見かけると、ポチンは今でも「あれ?これはきーちゃん?」と思わず立ち止まっています。
東京の生活になだれ込んできている、南房総の命たち。
親が、こどもに教えられることなどありません。一緒になって小さな命と向き合い、寄り添い、その中で自分たちの振る舞いの良し悪しが刻み付けられる。自然、という漠然とした存在が、一気に我がことになっていく強烈な出来事を、親も子もなく一緒になって経験する日々が、今も続いています。
(第23回に続く)