世界は広い、でも人の頭の中は小さい

 大阪環状線森ノ宮駅を降りる。もう夕暮れだけど晩夏の陽射しはまだまだ強い。目的地まではここから徒歩で5分ほど。でも急がないと。閉館時間が迫っている。

自虐史観と呼びたければ呼べばよい。<br />でも、加害の記憶から目を背けてはいけない大阪空襲で米軍が落とした焼夷弾の複製模型
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 館内に入ってすぐ目につくのは、大阪空襲の際に米軍の爆撃機が落とした焼夷弾の複製模型だ。傍でまじまじと眺める。何だか笑い出したくなるくらいに大きい(もちろん笑わないけれど)。

 動物園に行ったとき、僕はダチョウの大きさに毎回驚く。あるいはカバやサイやバッファロー。水族館ならマンボウとかジンベイザメとかセイウチ。博物館ならバシロサウルス・ケトイデスやメガロドンやインドリコテリウムの骨格標本。何度も見ているはずなのに、見るたびに呆然と口を開けながら、大きいなあなどとつぶやいている。これを何度も繰り返す。バカすぎて悲しくなる。たぶん見終えると同時に彼らのイメージは、頭の中で縮小しているのだろう。

 世界は広い。でも人の頭の中は小さい。整理整頓するためにはイメージを折りたたむ。特に規格外に大きいものや悲惨なものについては、この作業が強く働く。つまり矮小化だ。

 だから足を運ぶ。何度も見る。見るたびに驚く。見るたびに圧倒される。

 焼夷弾の複製模型のすぐ横には、空襲を受けた大阪市街(戎橋筋界隈)のジオラマが置かれている。松竹座など大きな建物は残っているが、他はほぼ何もない。街は燃え尽きて茶色のガレキが広がっている。