シノプティコン
――多数が少数を監視する情報社会

フーコーの流行によって多くの研究者が「近代は少数者が多数者を監視する社会である」と考えるようになりました。

しかし、ノルウェーの社会学者トマス・マシーセンによれば、この理解には決定的な見落とし、しかも意図的な見落としがあります。つまり、フーコーは「古代=見世物」、「近代=監視」と主張するのですが、こうした対比は歴史的にはうまく説明できないのです。

こうした歴史的な理解はきっと間違いであろう。事実により近いのは、次のことである。パノプティコン的なシステムは、過去2世紀の間にきわめて発展したが、しかし、ルーツとしては古代にある。単に個人の監視技術だけでなく、パノプティコン的な監視システムのモデルもまた、初期キリスト教時代かそれ以前に遡るのである。

つまり、フーコーが強調するように、監視の技術が近代に特有というわけではなく、むしろそれ以前の社会に遡るというわけです。さらに、もう一つの側面にも注意しなくてはなりません。

近代社会では、「監視の技術」だけが発展したわけではなく、「見世物(スペクタクル)」の側面もまた飛躍的に増大したのです。ところが、フーコーはこの側面をまったく無視してしまいました。

このような理解にもとづいて、マシーセンはパノプティコンに対抗する概念を提唱しています。パノプティコン(panopticon)は語源的には、「すべて」を表す「pan」と、「見る」にかかわる「opticon」から構成され、多数者を見通す監視システムです。

それに対して、マシーセンは「監視」だけでなく、多数者が少数者を見るという見物の側面も同時に備えた概念として、「一緒に、同時に」を表す「syn」を使って、シノプティコン(synopticon)と名付けています。つまり、私たちは「監視される者」であると同時に、「見物する者」でもあるのです。

マシーセンは「見世物」の側面を、「マスメディア、とくにテレビ」と考えていますが、現代の状況からすれば、むしろスマートフォンを想定するのが適切なように思えます。私たちは、たえずスマートフォンで情報を検索し、画面に見入っています。

映像であったり、音楽であったりするかもしれません。あるいは、Facebookの情報に、「いいね」と発信するかもしれません。しかし、このようにスマートフォンの画面を見ながら、情報を検索するとき、同時に私たちの動向はつぶさに監視されているのです。画面を見ることは、同時に監視されることでもあります。この二つは、切り離すことができません。