拙著、『知性を磨く』(光文社新書)では、21世紀には、「思想」「ビジョン」「志」「戦略」「戦術」「技術」「人間力」という7つのレベルの知性を垂直統合した人材が、「21世紀の変革リーダー」として活躍することを述べた。
この第10回の講義では、前回に続き「技術」に焦点を当て、拙著、『企画力 − 人間と組織を動かす力』(ダイヤモンド社:PHP文庫)において述べたテーマを取り上げよう。
米国シンクタンクの企画会議の凄み
今回のテーマは、
世界最大のシンクタンクで学んだ「企画の極意」。
このテーマについて語ろう。
冒頭に掲げた通り、今回の講義のテーマは「企画力」。
その「企画力」で、永年仕事をしてきた一人の人間として、筆者自身の体験を交えながら、「企画力」を磨くための心得と技法について話をしよう。
では、まず最初に、
「企画力」とは、何か。
少し大上段な問いであるが、最初に、このことについて、述べておこう。
もとより、こうした大上段の問いに対しては、人によって様々な答えがあるだろう。また、様々な答えがあってしかるべきであろう。一つの分野でプロフェッショナルをめざし、道を歩んでいる人間ならば、こうした大上段の問いに対しても、必ず、その人なりの覚悟と答えを持っているだろう。その意味で、筆者自身も、この問いに対して、明確な答えを持っている。
それを一言で述べるならば、
人間と組織を動かす力。
それが「企画力」である。
筆者は、永年、米国と日本のシンクタンクの世界で働いてきたが、この業界は、まさに「企画力」というものが商品。すべての仕事において、この「企画力」が求められる業界である。その世界で永く仕事をしてきた人間として、もし「企画力とは何か」と問われれば、迷うことなく、「人間と組織を動かす力」。そう答えるだろう。
では、なぜそう述べるのか。
それは、米国のシンクタンクで働いたときの経験からである。もとより、筆者は、それ以前にも、日本の民間企業において「企画力」が求められる仕事をしてきたが、「企画力とは何か」ということについて、本当のプロフェッショナルの覚悟を学んだのは、30代の頃、米国に本拠を置く世界最大の技術系シンクタンク、バテル記念研究所で働いたときであった。
このバテル記念研究所は、その名前を知らない読者も多いと思うが、実は、読者諸氏の生活や仕事に極めて身近なシンクタンクである。
例えば、読者諸氏が毎日コピーに使っているゼロックス。また、クレジットカードなどの上に印刷されているホログラム。そして、商品に印刷されているバーコード。こうした技術を開発したのは、この技術系シンクタンク、バテル記念研究所である。
しかし、正確に言えば、この研究所は、単なるシンクタンクではない。この研究所は、シンクタンクといっても、単に「思考する」だけの「シンクタンク」(Think Tank)ではなく、様々な分野の新しい技術を研究・開発し、さらに、実用化・事業化する、「行動する」シンクタンク、いわば「ドゥータンク」(Do Tank)である。
少し専門的な言葉で言えば、この研究所は、新しい技術の卵を「孵化(ふか)」(インキュベート:incubate)させる組織、いわゆる「テクノロジー・インキュベータ」(Technology Incubator)と呼ばれる組織である。
そして、筆者が「企画力」ということについてプロフェッショナルの覚悟を学んだのは、このシンクタンクに着任してしばらく経った頃、あるプロジェクトの企画会議に出席したときのことである。
それは、当時、最先端のテーマであった「人工知能」の研究開発についての企画会議であった。米国政府から受託した数十億円の研究開発予算を使って、どのようなプロジェクトを実施するか。各研究員が色々な企画を出し合い、どの企画で行くか、その検討と意思決定をする会議であった。
こうした会議では、最初に、各研究員がそれぞれの企画書を提出し、研究所の部門ディレクターの前で交互にプレゼンテーションを行う。そして、全員での議論の後、最後に、そのディレクターが、どの企画を採用するか、意思決定をする。
その日も、いつものように各研究員のプレゼンテーションが始まったのだが、それらの中に、筆者の目から見ると、なかなか面白い企画提案があった。まず企画の切り口が面白い。企画書も、時間をかけてよく考えられている。その研究員のプレゼンテーションも、上出来。そう感じた。
そして、すべての研究員の企画提案と議論が終わり、いよいよディレクターが採用する企画を決める場面がやってきた。ところが、筆者の期待に反し、そのディレクターは、他の研究員の提案した企画を採用したのである。残念ながら、彼の企画は、採用されなかった。
筆者は、彼の企画はなかなか悪くないと思っていた。だから、このまま不採用にしてしまうのは惜しい企画に思えたので、会議が終わった後、そのディレクターに話しかけた。
そのディレクターは、穏やかな物腰の、人間的にも尊敬できる人物であり、たまたま親しい関係でもあったことから、私は、率直に聞いた。
「あの彼の企画は、不採用か」
「そうだ」
「しかし、良い企画だと思うが」
「たしかに、悪くはない。しかし、今回のプロジェクトでは、不採用だ」
「良い企画だと思うのなら、今回のプロジェクトの一部に組み入れることはできないのだろうか」
「それはできない。予算も限られている」
その返事を聞いたとき、筆者の日本人的情緒が頭をもたげ、思わず、次の質問をした。
「しかし、彼は、かなりの時間を使って、あの企画書を書いてきたのではないか。もし、あの企画が不採用になるのならば、では、彼が努力して書いてきた、あの企画書は、いったい何なのか?」
しかし、このときディレクターから戻ってきたのは、当時の筆者にとっては、耳を疑う言葉であった。